アジア写真帳アジア写真帳(中国)桃園結義の舞台、楼桑村>涿州とは

桃園結義の舞台……涿州とは



(桃園結義の舞台、楼桑村)


 涿州(たくしゅう)市は、北京市に隣接する市で、北京からバスで1時間強も乗れば到着します。涿州市は、三国志の英雄、蜀の劉備玄徳が兵を起こす前に住んでいた楼桑村のあった地域で、また、関羽と張飛という生涯の仲間と兄弟の義を結んだ場所でもあります。日本では一般的には「桃園の誓い」といわれていますが、中国ではこれを「桃園三結義」と言います。
 写真は「桃園三結義」の碑ですが、桃園の結義は、吉川英治の三国志でも、第一巻の見せ場です。劉備がどのようにして張飛や関羽と出会ったのか、それまでのストーリーを簡潔に復習しましょう。


 まず、時代や劉備玄徳の設定について簡単に触れておきます。
 時代は、太平道(不老不死の霊薬の発見や死後は仙人になることを理想とする漢民族の土着的な宗教)を背景とする黄巾賊が反乱を起こしている時期です。黄巾賊は、太平道の信徒が中心となる農民の義軍なのですが、各地域で漢軍との戦いに勝利すると、その地域の食糧や財宝を根こそぎ掠奪するばかりでなく、黄巾賊以外の人々を殺戮したり婦女への暴行をしたりという具合に統制はとれておらず、世は大いに乱れていました。
 一方、劉備は中山靖王劉勝の正しい血筋であり、漢の景帝の玄孫(ひ孫が産んだ子を言う。孫の孫。)です。劉備はいつの日か世の乱れを自分の手で救わなければならないという気持ちは持ち続けていますが、今は金も力もない青年です。


 吉川栄治の三国志では、涿県楼桑村(今の涿州)で母とともに蓆(むしろ)織りや販売をしている青年、劉備が母の大好物のお茶を買うために、洛陽から来る船を黄河沿いの岸辺で待っている場面からスタートします。当時、お茶は高貴な人だけが飲める高価な飲み物で、都である洛陽からの船で買うくらいしか手段がありませんでした。
 劉備は何とか努力してお茶を買ったものの、当時勢力を伸ばしていた黄巾賊の幹部たちに捕らわてしまいました。一部始終を見ていたその村の寺の住職は、黄巾賊にその地を追われた鴻家の娘を劉備に託し、劉備を娘とともに逃亡させました。しかしながら逃亡してまもなく劉備たちは黄巾賊に見つかってしまい、いよいよ劉備も死を覚悟したときに、一人の偉丈夫が黄巾賊の一味を一網打尽にします。その偉丈夫こそ、張飛翼徳でした。張飛は、滅ぼされた鴻家の家来でしたから、かつての主君の娘を救いたいという気持ちで、現場に駆けつけたものです。
 これが、劉備と張飛の運命的な出会いです。


 それから、数年の月日がたちます。

 涿県楼桑村に戻った劉備は、相変わらず、蓆(むしろ)織りや販売をしていました。ある日、涿郡の城内に黄巾族討伐の兵を募る太守劉焉の立札が立ちます。それを見ていた劉備に一人の偉丈夫が声をかけます。それは、数年前に劉備の命を救った張飛でした。劉備は張飛に対して、自分が中山靖王劉勝の正しい血筋であることなどを明かし、それを聞いた張飛は既に義兄弟の契りを結んでいた関羽とともに、劉備と三人で黄巾族討伐軍に参加することを劉備に願い出ます。
 時いよいよ来たりということで、劉備の母も黄巾族討伐軍への参加に賛成したこともあり、劉備も張飛、関羽とともに、募兵に応じます。


 それに先立ち、三人で義兄弟の契りを交わしたことを「桃園結義(桃園の誓い)」と呼んでいて、その結義が行われた場所が、当時の劉備の家の裏、桃の花が咲く公園なのです。祭壇を造り、子豚を焼き、酒樽を持ち込み、大望成就を願って杯を交わしたわけです。この結義において、長兄は劉備、次兄が関羽、末弟が張飛となります。彼ら三人は、この場で次の通り誓い合ったとされています。
 西暦188年3月23日のことです。
 「我ら三人、姓は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、願わくば同年、同月、同日に死せん事を」
 因みに、この直前、関羽は涿県近くで寺子屋の先生を、また、張飛は涿県で肉屋をして、世の乱れを正すために自らの出番を伺っていたという設定です。上の写真は、桃園結義の様子を再現した像です。中央が劉備、右に関羽、左が張飛です。この像は涿州市にある張飛廟にあります。





 さて、ストーリーの紹介が長くなってしまいました。楼桑村のある涿州市の話に戻したいと思います。
 涿州市へは、北京から917系統支4の直通高速バスで1時間程度で着きます。詳しくは「涿州への行き方」を参照していただきたいのですが、直通バスは頻繁に出ているので、これが便利です。しかしながら、バスは涿州市の工業団地が終点になっていますので、途中のバス停で降ります。涿州市政府(市役所)あたりが良いと思います。
 「あたり」という言葉を使いましたが、どこで降りてもそこから各スポットまで歩いていくにはちょっと距離があります。したがって、下車した後に、タクシー(滅多に通りませんが。)か白タク(ちょっとリスクがありますが。)、あるいはレンタル自転車を使うということになります。


 涿州市は、三国志ファンの聖地の一つですが、スポットとしては、次の通りです。
  ①三義宮
  ②張飛廟(張飛の古井戸を含みます。)
  ③劉備故里
  ④三義広場
 このうち、私が行ってきたのは、三義宮と張飛廟です。劉備故里は劉備の家があったとされるところですが、今は桑の大樹もなく見通しの利かない林の中に碑だけがポツンと立っているだけだと聞いているため、訪問していません。また、三義広場には黄巾族討伐に向かう馬上の三人の勇ましい像があるのですが、ここもその像だけ見に行くのもどうかと思って訪問していません。
 上の写真は三義宮の入口です。


 ここでは、涿州市での観光スポットのうち、三義宮と張飛廟について、そのポイントをまとめています。詳しい紹介は、それぞれのページを参照ください。
 まず、三義宮です。上の写真の通り入口は立派ですが、服務員は普段着姿でのどかです。文化大革命時に破壊されてしまいその後暫く閉館されていたものを、新たに再建し現在に至っています。涿州市としては、三国志を町興しに活用しようとしていると言われていますが、その象徴的なスポットが、ここ、三義宮です。
 しかしながら、この日は広い駐車場がむなしく空いていましたし、お客さんも私たち以外には全くいませんでした。涿州市街からのアクセスが悪すぎます。私たちは白タクで行ったので市政府付近から10分弱で到着しましたが、貸し自転車で行ったら三十分以上かかるのではないでしょうか?




 入口で入場料20元を支払って三義宮に入ると、こんな風景が広がります。劉や関や張といった旗がたなびくなか、三義宮の奥へと進んでいきます。
 三義宮は、隋の時代に建てられた歴史的な建物で、以降、唐の時代から明・清の時代の修復を経て、忠義の心を語り継ぐ貴重な施設として広く知られていましたが、20世紀後半の文化大革命時に破壊しつくされてしまった経緯にあります。
 今の三義宮は1996年に涿州市旅行文化局によって再建されたもので、山門、馬神殿、関羽殿、張飛殿、正殿、退宮殿、武侯殿、少三義殿の各建物と、87の蜀将等の彫像を再現しています。
 したがって、ほとんどは1990年代に建造された建物ですから、綺麗ではありますが、歴史を感じさせるものではありません。
 写真正面が馬神殿です。


 馬神殿には、こんな彫像もあります。
 てっきり張飛かと思いきや、呂布の愛馬である赤兎馬(せきとば)と馬子だということです。馬の神様というと、やはり赤兎馬になってしまうのでしょうか。馬神殿にあるもう一つの白い馬は、劉備が乗っている的蘆(てきろ)です。


 馬神殿を通り抜けると正殿です。美しい建物です。
 正殿という名が付いているので、この三義宮のハイライトともいえます。否が応でも期待が高まります。


 正殿の中央に鎮座している劉備玄徳像です。高さ2メートル以上あって、天井まで届きそうな高さですから、かなり立派なものです。
 正殿には、正面に劉備を挟んで、関羽と張飛が鎮座し、向かって左側の壁に沿って武官系の将たちが、また、向かって右側の壁に沿って文官たちが屹立しています。


 正殿には道士みたいなおじさんがいて、中国語で話してきます。確か10元だったと思いますが、それを支払うと写真のように私たちの名前を書いた布を持って劉備様に祈ってくれます。結構長いこと祈ってくれまして、途中で布に書いた私たちの名前も読みながらの熱演です。私たちの名前を書いた布は、写真ではおじさんの右に見えるように、劉備様の像の周りにぶら下げられます。
 お祈りが終わると、道士みたいなおじさんは私たちを横のテーブルに連れて行きました。てっきり占いか何かを始めるかと思ったのですが、「さらに一人100元支払えば、これから毎日自分が劉備様にお祈りをするので、事業成功・家庭平安間違いない。さらに100元を支払って毎日のお祈りをしてあげましょう。」などと中国語で言ってきます。勿論、お断りさせていただきましたが、こんなことを日本人に言ってくるところを見ると、こんなのに金を払う日本人が後を絶たないのでしょうね。


 さて、文官たちの彫像です。因みに、左が正殿の奥ですので、左が上席ということになります。
 前列は、左が羽扇を持っているので諸葛亮孔明だということは誰でも分かります。右側は、龐統でした。文官系では、この二人が前列なのは分かる気がします。後列は、諸葛亮の左後ろが費褘、右へ伊籍と馬良です。馬良は白眉かと思いきや黒い眉でした。実は、後列はさらに左(上座)に二人、許靖と法正がいました。許靖は意外ですね。むしろ、麋竺がいてもいいのに、なんて思ってしまいます。
 ということで、文官系は7名です。


 一方、劉備に向かって左側は武官系が並んでいます。
 前列は2名。この二人は分かりやすくて、左が趙雲、右が黄忠です。
 後列は、左から、王平、廖化、魏延と並び、さらに右側(上座)に馬岱と姜維が並んでいます。馬超がいないのはどうしてでしょう。やはり、中国では三国志演義の中での評価でしょうけど、日本の場合は吉川英治や北方謙三の小説で読む人が殆どですから、武将の人気や評価も、日中間で違いがあるのでしょうね。



 正殿以外にも、既に書いたように、関羽殿、張飛殿、退宮殿、武侯殿、少三義殿と建物がありますが、その詳細は別のページでごらんいただくこととしたいと思います。
 因みに、上の写真は関羽殿にある関羽像です。財神としても祀られています。


中国旅行を楽しむなら、中国語を勉強しましょう
中国語検定4級のレベルがあれば、自由旅行やレストランでの注文も自由自在です。
4ヶ月間で中国語の4級レベルまで勉強しましょう。
 


 一方、こちらは張飛廟の入口です。三義宮から車で5分程度です。
 張飛廟としてよりも、張飛が肉を市場で販売していたときに、冷蔵庫代わりに使っていた古井戸があることで有名です。


 入口付近にある張飛像です。張飛はもともとは涿県の出身ではありません。かつて鴻家の家来だった張飛が、再起を志しつつ、市場で肉を売りながら潜伏していた場所が涿県で、当時使っていた井戸がまだ残されているということもあって、ここ涿州において、張飛の人気は関羽を明らかに凌いでいます。


 張飛の古井戸は、この東屋のところにあります。
 当然ですが、もう、井戸としては使われていません。


 井戸の中を映してみました。勿論何も見えないですね。
 水の潤沢な井戸だったのでしょう。張飛は肉を腐らせないように、この井戸の中で肉を保存していたといわれています。張飛が肉屋をやっていたのは西暦180年ごろですから、今から1800年と少し前に、張飛がこの井戸を使っていたのかと思うと、三国志ファンの私としては、ちょっと嬉しくなってしまいます。


 張飛廟にある張飛の彫像です。怖い顔というよりも赤ら顔ですね。ちょっと可愛い張飛です。
 張飛廟についても、詳しいことは別のページで見ていただければと思います。


 張飛廟の壁に描かれている張飛と関羽です。
 この涿州の三国志スポットにいると、三国志の世界にどんどん引き込まれていってしまいます。
 行かれた方からは、意外に大したことない、道士が金儲け主義だ、サービスがなってない、などとあまり良い評判は聞きませんが、間違いなく三国志ファン、特に蜀のファンの聖地であることは間違いありません。しかも、北京から一時間強という地の利もありますので、ぜひ、興味ある方は行かれることをお勧めします。

 1800年以上の時間差があるとはいえ、その昔、劉備、関羽、張飛が吸っていた空気を、この体で味わえるのです。それだけでも価値ある街が涿州です。

三国志の桃園結義の舞台、劉備の故郷「涿州」
トップページはこちらです



(桃園結義の舞台、楼桑村)