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三義宮にいる蜀の武将や家族たち |
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劉備の故郷であり、劉備が関羽、張飛と桃園の誓いをした楼桑村にある三義宮は1996年に涿州市旅行文化局によって再建されたもので、山門、馬神殿、正殿、関羽殿、張飛殿、退宮殿、武侯殿、少三義殿の各建物と、87の蜀将等の彫像があります。 三義宮の山門から馬神殿、正殿、関羽殿、張飛殿までは、別のページで紹介していますので、ここではそれ以外の建物にある蜀の武将や家族たちの彫像を紹介していきます。 |
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右側は羽扇を持っているので、誰でも分かりますね。諸葛孔明です。左側の彫像は、悲運の軍師、龐統です。蜀に入る直前で流れ矢に当たって命を落としてしまった龐統ですが、もし、龐統がともに蜀に入ることができていたならば、諸葛孔明の補佐役として活躍し蜀の歴史を変えていたかもしれません。そんな思いもあるのか、ここ三義宮では、龐統は諸葛孔明と並ぶ取り扱いです。 一方、諸葛孔明の扱いは、劉備の義兄弟である関羽や張飛に比べると、ここ楼桑村では1ランク低いものになっています。諸葛孔明に興味のある方は、浙江省にある諸葛八卦村に行かれることをおすすめします。諸葛八卦村は諸葛孔明の子孫が隠れ住んできた村で、諸葛孔明の功績を称える祠堂など見所が沢山あります。 |
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馬超、馬岱の兄弟です。 馬超は蜀の武将として獅子奮迅の働きをしていましたが、ここ三義宮においては馬岱よりも登場回数が少ない武将です。一方、馬岱は、諸葛孔明が五丈原でなくなり魏延に怪しい動きがあった際に、魏延を一刀のもとに斬り倒したことで有名ですが、そんな蜀に対する功績が評価されているのでしょうか、兄の馬超を凌ぐ露出度です。 |
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馬超、馬岱の兄弟の横にいる兵士たちです。 馬超、馬岱とは兄弟ではありませんが、同じ馬姓の馬謖(馬良の弟です。)は三義宮に彫像はありません。馬謖は街亭の戦いにおいて諸葛孔明の命に背き山頂に布陣し大敗し、蜀の北伐失敗の原因となった武将です。馬謖の才を愛し将来を渇望していた諸葛孔明は、泣いて馬謖を斬ることになるわけですが、馬謖については、劉備が生前、諸葛孔明に対して重用することがないよう戒めていた武将でもありました。 そんなこともあるのでしょうか、馬謖は三義宮に登場することはありません。 |
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左が黄忠、右が趙広です。この二人が何故並んでいるかは分かりません。 黄忠は、赤壁の戦いの後、劉備が荊州の南4郡を平定した際に、劉備に帰順して仕えた武将です。その後は劉備の最も勇猛な武将の一人として活躍しています。三国志の中では、60歳を超え高齢であるにもかかわらず、一騎打ちで敵将を討ち取る場面が多いのも特徴です。 一方、趙広は趙雲の次男で、兄は趙統です。劉備や諸葛孔明の時代には殆ど出番がなく、むしろ蜀が魏に攻められた時に、姜維らとともに戦ったことが知られています。 何故この二人が一緒にいるのか、私には見当もつきません。 |
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劉禅と関興です。 劉禅は、言わずと知れた劉備の子。劉備のあとを継いで公定になったものの、暗愚な皇帝で存在感はありません。この彫像も、そんな劉禅らしいものになっています。 一方、関興は関羽の子で弟に関索がいます。関平は関羽の養子なので、義兄にあたります。また、張飛の息子である張苞とは義理の兄弟の契りを交わしており、劉備は年長の張苞を兄としています。関興は、父関羽の弔い合戦とも言える呉征伐で戦果を挙げたものの、夷陵の戦いで劉備を助けて傷を負い、その数年後に死去しています。こうして考えると、何故、劉禅の隣に座しているのでしょうか。因みに張苞はここにはいないのです。不思議です。 |
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甘夫人と糜夫人です。 甘夫人については、劉備が小沛に刺使として住んでいた時に、婦人とした女性で、劉禅を産んでいます。しかしながら、正妻ではありません。 一方、糜夫人は、劉備の部下である糜竺の妹です。劉備が気に入って側室にしたとのことですので、美人だったのでしょう。子供はありませんでしたが、甘夫人との仲も良く、阿斗を我が子のように可愛がっていたようです。長坂の戦いで趙雲が劉備の子、阿斗(後の劉禅)を抱え、敵方の兵士を斬り伏せながら味方の陣に戻ってくるシーンは、三国志の小説でも、また、映画レッドクリフにおいても、一つの見所ですが、その際に足手まといになるからといって、自ら井戸に身を投げて自殺したのが糜夫人です。 |
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劉備の正妻は、この孫夫人です。 ご存知のとおり、孫権の妹で、映画レッドクリフにおいて描かれていた通り、かなりのおてんば娘として知られています。初め、孫権は劉備をおびき出すための手段として妹との結婚を申し入れたようですが、諸葛孔明の活躍もあって、言わば政略結婚のようなかたちで劉備と結婚する結果となったものです。 結婚後も、阿斗(後の劉禅)を連れて呉に帰ろうとするなど、おてんばぶりを見せますが、次第に劉備に魅かれていったようです。 |
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上の写真は、中国江蘇省鎮江市の甘露寺にある蝋人形で、孫夫人の嫁入りの様子です。右から二番目の青い羽織を着ているのが劉備で、その隣の武将が趙雲です。 鎮江市の甘露寺というのは、劉備と孫夫人が婚礼を揚げた場所で、当時劉備は45歳、孫夫人は18歳です。劉備が見合いの席で、揚子江を見下ろして「絶景だ」と賞賛したのが、この甘露寺にある多景楼の二階で、私が2009年に行ったときには、修繕のため残念ながら二階に上がることはできませんでした。 |
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同じく甘露寺にある祭江亭です。多景楼の隣にあります。 甘露寺は、揚子江を見下ろす北固山にあり、この東屋の向こう側は絶壁の下に揚子江が流れています。孫夫人は劉備の死を聞いて劉備の葬儀を行った後、絶壁の下の揚子江に身を投げたとされています。祭江亭という名は、その故事から来ているとのことです。 鎮江市も三国志の聖地の一つです。甘露寺のある北固山には、劉備と孫権が天下制覇を願って斬ったとされる「試剣石」といったものもあれば、魯粛や太史慈の墓もあります。近々、このホームページでも詳しく紹介していきたいと思っています。 |
三国志の桃園結義の舞台、劉備の故郷「涿州」
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![]() (桃園結義の舞台、楼桑村) |