本文へスキップ

北京、頤和園の昆明湖

(1998年11月29日以来)

頤和園の昆明湖Yiheyuan

頤和園の入口

 頤和園は、もともとは1750年に清の6代皇帝、乾隆帝が母の還暦を祝って造営した庭園です。1860年に第二次アヘン戦争(アロー戦争)により破壊されていた庭園を、修復したのが西太后です。この際に、実質的な最大権力者である西太后は、創建時の乾隆帝の母思いの故事にならい、第11代皇帝の光緒帝の名のもとに西太后の隠居後の住居として建築させたばかりか、その莫大な修復費に北洋艦隊の増強費を流用したということで、この頤和園という庭園は、西太后の欲の深さを示す例えによく使われるとともに、清の滅亡を早めた原因の一つに指摘されています。因みに、第11代皇帝の光緒帝は、西太后の妹の子供です。
 そんな歴史は色々な書物や小説で見てきている私ですが、頤和園に来たのはこれが2回目です。西太后が贅を尽くして建造した庭園を早速見てみましょう。写真上が入口です。頤和園にはいくつか入口がありますが、この入口は、新建宮門です。

北京、頤和園の昆明湖

 新建宮門を入ってすぐのところに上の写真の碑楼が建てられていて、碑楼をくぐるとすぐに昆明湖が広がります。
 頤和園は面積約290万㎡あります。東京ドームが46,755㎡ですから、東京ドーム62個分の広さということができます。これでは分かりづらいなら、あまり適切な例ではないかもしれませんが皇居が1.42km2ですから、皇居がほぼ二つ入る広さということになります。相当に広いのです。したがって、頤和園の全部を回ると1日かかってしまうので、今日は頤和園の東の入口である新建宮門を入って、東岸を通って、長廊や仏香閣を回って、北宮門から帰るコースを想定しています。頤和園主要部の地図がリンク先にありますので、こちらを参照しながらこのページを読み進めてください。

北京、頤和園の昆明湖

 頤和園にある昆明湖です。昆明湖は頣和園2.9km2の4分の3を占める大きな湖で、杭州にある西湖を模して作られています。西湖を模したのは西太后ではなく、もともとの庭園を造った乾隆帝です。乾隆帝は清の絶頂期に皇帝となったので、性格は派手好みで、外征(他国への侵攻)、文化の振興(特に書を好んだ)等で、華やかな史実が残っており、書のコレクションの収拾などを目的に、たびたび江南地域(杭州蘇州紹興、揚州といった地域)にでかけていました。(行幸といいます。)中国での書家といえば王羲之ですが、王羲之が「蘭亭序」を書いた紹興の蘭亭には、当然のことながら乾隆帝の足跡が残っています。
 江南行幸の中で印象深かった杭州の西湖を作りたいという乾隆帝の強い願いが、この昆明湖になったわけです。このように、頣和園の中には、至る所に中国江南地域風の味付けがなされています。

頤和園、昆明湖と船

 昆明湖です。杭州の西湖を模して造られたことは前述の通りですが、周りを低い山々に囲まれた風景は、確かに西湖で感じるような風情があります。西湖は面積が6.5km2、外周が15kmに対して、頤和園の昆明湖は面積が2.2km2、外周が6kmですから、西湖ほどではないにせよ、実物の3分の1くらいの模倣庭園を造ってしまうのですから、中国皇帝の力の強さを感じます。
 もっともこの原型を作った乾隆帝の時代は清が最盛期を迎えていたころで、こんなに広大な庭園を造っても清の財政は揺るがなかったのですが、これを再建した西太后の時代は清が列強諸国に侵略されつつあり真の財政状態も極まっていたわけですから、この頤和園の再建が清の滅亡を早めた一因だとする考えも納得できるものです。

頤和園の昆明湖にかかる十七孔橋

 昆明湖に浮かぶ南湖島と南湖島に東岸から架かる十七孔橋です。十七孔橋は長さ150mの石造り橋で17の穴が開いた形になっているのでその名がつけられています。大変優美な橋で、杭州西湖の白堤に架かる断橋がその原型です。断橋には一つの穴しかありませんし距離もずっと短いのですが、十七孔橋はこれを伸ばし西湖よりも優れた景色を作ろうとした乾隆帝の思いのかも知れません。
 南湖島は昆明湖にある小島で、ここから昆明湖越しに見る仏香閣は見事なものがあります。



頤和園の昆明湖湖畔

 頤和園の地図を見ると、新宮門から文昌閣まで昆明湖の東岸は何もない殺風景なところに見えがちですが、この東岸は昆明湖に沿った風光明媚な散歩道です。岸に沿って柳が植えられているのは杭州の西湖と同様です。この東岸の散歩道は、西湖で言えば柳浪聞鶯あたりを模したものでしょう。

頤和園、昆明湖畔の文昌閣

 上の写真は文昌閣です。三層の建物ですが、城門としての機能もあります。文昌閣という名前は文昌帝という道教に出てくる学問の神様から来ているそうです。文武の政治を補佐するという意味があります。
 文昌閣を過ぎると城内に入った感があり、華麗な建造物が建ち並びます。


頤和園の文昌院

 文昌院の入口です。この建物は頤和園の中ではあまり有名ではないのですが、西太后が収集した宝物や陶器を展示していますので寄ってみました。門の装飾が見事で鎮座している狛犬も立派です。

北京、頤和園の文昌院

 文昌院の近くの壁面にあった大理石の彫刻です。皇帝の権力を示す龍が彫られています。何の変哲もない建物の壁にこんな立派な彫刻があって驚かされますが、さすがに西太后が贅を尽くした頤和園ならではです。


 文昌院で展示されていたヒスイの宝物です。台湾の故宮ほどではないにせよ、この頤和園文昌院の宝物も見事なものが多いというのが私の印象です。もちろん、西太后の時代に収集されたものばかりではないと思いますが、その贅沢な暮らしぶりを改めて教えてくれる展示です。

文昌院の回廊(北京・頤和園)

 文昌院の中の廊下です。後ほど紹介する長廊と同じように鮮やかな色で装飾されていています。最近修復されたのか、長廊よりも絵の色使いが鮮やかで、おそらく長廊も再建されたばかりの頃はこのくらい鮮やかだったのではないかと思われます。

頤和園の狛犬

 先ほどの文昌院の入口から狛犬越しに周りを写してみました。観光客で混雑する頤和園もこの辺りまで来ると人が少ないので、ゆっくりと西太后の気分になって雰囲気を楽しめます。


北京、頤和園の昆明湖

 また、昆明湖畔に戻ってきて、西北方面を眺めたところです。山の上の徳興殿などが見え、風光明媚です。また杭州西湖の話で恐縮ですが、徳興殿は西湖の雷峰塔を模したのでしょうね。徹底的に西湖を意識して造られたのが頤和園です。これは西太后の好みというよりは、原型を造った乾隆帝の好みであることは冒頭に記載したとおりです。
 写真に湖に沿って色々な形の窓が開いている廊下が見えます。これを見てみましょう。


 廊下の窓です。十字や五角、六角、炎型などに開けられた窓で、空窓といいます。空窓は蘇州をはじめとした中国江南地方の庭園によく見られるもので、雨が多い気候なので壁付きの廊下を作ったさいに湿気で暑いので通風機能を果たすために開ける窓に装飾を施すものです。勿論、その窓から眺めた景色を楽しむという効果も期待されています。ここでは、窓を開けると昆明湖が広がるわけですが、湖畔には蓮の花が咲いています。これなどはまさに蘇州の庭園の作りです。

頤和園、昆明湖の蓮の花

 湖畔に咲いていた蓮の花です。杭州の蓮蘇州の蓮の花ほど大きくはありませんが、見事な花です。
 頤和園の東岸を歩いて昆明湖を見てきましたが、なるほど江南文化への乾隆帝の強い憧れが感じられる庭園です。頤和園観光のハイライトである仏香閣と長廊、蘇州街については、こちらのページで紹介します。

 このページの締めくくりに、杭州の行政官を勤めた蘇東坡が西湖を詠んだ詩を紹介しましょう。蘇東坡は西湖に蘇堤という堤を作ったことでも有名です。

  湖の水が輝く晴天の日が良い。 
  山々が霞んで朦朧とした風情も一興である。
  西湖を西施に例えるならば、
  淡い化粧の時も濃い化粧の時も、いずれ劣らず素晴らしい。

 ここで西施とは、春秋戦国時代(呉越戦争の時代)に越王から呉王に召しだされた女性ですが、その美しさのあまり呉王は夢中になり、政治を省みなくなったといわれています。そんな美しさがこの昆明湖にもあるような気がします。
 西太后が頤和園の再建で清の滅亡を早めたのも、西湖の美しさ、昆明湖の美しさが罪だったのかもしれません。


アジア写真帳(北京)