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赤壁の戦いは、三国志の中でも一つのハイライトで、三国志について少しでも関心のある人なら知っている有名な戦いです。映画「レッドクリフ」は、三国志の「赤壁の戦い」と「長坂の戦い」の部分を紹介した映画ですから、この映画の中で「赤壁の戦い」を知った人も少なくないと思います。 |
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三国赤壁古戦場は、赤壁の戦いが繰り広げられた赤壁市に作られているテーマパークで、当然ながら長江(揚子江)に面した場所に建設されています。テーマパークですから、当時の建物や陣地を復元したり、また、三国志の英雄たちの彫像があったりということで、現代的な公園になっていますので、当時を偲ぶところといえば、長江の眺めくらいしかありません。 私たち日本人からすると、赤壁で長江の広さを改めて知って、ここから対岸の烏林の曹操軍では、?統が船酔いを防止するには船をつなぐのが良いなどと火攻めしやすくするための献策を巧みに仕掛けたとか、黄蓋が投降すると見せかけて烏林の曹操軍に向けて船を突っ込ませたんだな、とか、そんなことに思いを致せること自体が三国志ファンにとっては、たまらないことなのです。 |
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実際に、この赤壁古戦場の中にある赤壁大戦陳列館(博物館)では、上の写真にあるような?統や黄蓋の有名な場面が紹介されています。私が読んだ「三国志」ものは、吉川英治や北方謙三の「三国志」だったり、はたまた陳瞬臣の「諸葛孔明」だったりで、当然のことながら中国人が読む「三国志」ではないのですが、中国人向けのこのテーマパークの中で、?統の「連環の計」や黄蓋の「苦肉の計」が紹介されているのを見ると、なるほど私が読んだ三国志ものの小説も原書に一定程度忠実に描いているのだと感心してしまいます。 |
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話がそれましたが、この赤壁古戦場がテーマパークである以上、繰り返しますが、当時をしのべるのは長江(揚子江)だけです。その長江沿いの岩に赤い字で赤壁と書かれているところ(「赤壁石刻」といいます。)が一つの見所なのです。ところが、長江の水位によって、この赤壁の文字が見えないときもあります。 実際の赤壁の戦いは冬に行われています。地元の人に聞くと、冬は長江の水位がかなり低くなるようです。このページの一番上の写真のような感じでしょうか。そして、普通はすぐ上の写真くらいの水位です。 |
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ところが、私が行った2012年の夏は、四川省方面等での大雨で、長江上流の三峡ダムが一杯になってしまったため、三峡ダムを建設して以来、最大量の水を放水していたことから、この「赤壁」の文字が見えないどころか、赤壁付近の長江は危険水位を上回り洪水警報が出されていた時期にあたっていて、残念ながら「赤壁」の石刻は川の水の中に隠されてしまっていました。 |
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そうなると、テーマパーク内にある軍を指揮する周愉の彫像の横に刻まれた赤壁の文字でもって、赤壁石刻を見た気持ちにならざるを得なくなるわけです。 まあ、長江の水が多い分だけ長江はますます雄大に見えるわけで、石刻が見えなかったからといって、赤壁の戦いの現場に来たという実感が沸かなくなるわけではありませんので、揚子江の水量にはそんなにこだわる必要もないと思います。 |
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この赤壁古戦場を訪問するときに気をつけたいのは、長江(揚子江)の水量よりも、赤壁の暑さだと思います。赤壁への玄関口である湖北省の武漢市は、南京などと並んで「中国の三大ボイラー」などといわれるほど、夏が暑いことで知られています。この赤壁も例外ではなく、とてつもない暑さの中、この広いテーマパークを見て回るのは、流石に骨が折れます。 別のところでも触れますが、いつもは武漢からの日帰りツアーが組まれる赤壁古戦場ですが、夏はその日帰りツアーが中止になります。いくつかの旅行社に問い合わせると、こんな暑い時期に赤壁古戦場に行く観光客は殆どいないからだという回答が返ってきます。 そんなわけで、経験者としては、この赤壁古戦場に行くなら夏は外すべきというのが最大のアドバイスです。 |
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赤壁の戦いとは |
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上の地図も見ながら、赤壁の戦いがあった時代を振り返ってみます。 曹操が官渡の戦いで袁紹を破ったのが西暦200年、この官渡の戦いは袁紹軍10万人を曹操軍1万人弱(陳寿「三国志」)で破ったとも言われていますが、そこまで兵力の差はなかったのではないかという意見も多いようです。その後、曹操は南下を開始し、208年に荊州の劉表への攻撃を開始したところ、同年8月に劉表が病死し、跡を継いだ劉jが翌月の9月に曹操に降伏しています。 その時劉備は、劉表の客将として新野の城を守っていましたが、8月の劉表の死後、曹操軍から逃げるため南下を開始しています。その際に、劉備を慕う農民たちがついてきてしまったため、長坂で曹操軍に追いつかれ、妻子と離れ離れになってしまうのですが、この時に趙雲が劉備の妻子を探しに単騎曹操軍の中に討ち入り、劉備の子、阿斗(後の劉禅)を救い出したことは有名です。映画「レッドクリフ」でもこのあたりの話が第一部の山場でした。 その後、劉備は劉表の長男、劉gや関羽と合流し、夏口(今の武漢)から樊口付近で孫権軍と合流したとされています。 そして、赤壁の戦いは208年11月18日(旧暦)、新暦で言えば12月15日ですから、時期はすでに冬ということになります。ここから先の話は三国赤壁古戦場の紹介もしながらすすめていきましょう。 |
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上の写真は三国赤壁古戦場です。毎日数回、長坂の戦いでの趙雲の働きを実演してくれます。「単騎救主」という演技です。うまく時間が合えば、こういったものも見ることができます。他に空城の計、周愉の閲兵など様々な演出があって、これらは時期によって内容が変わるようです。最新の情報は三国赤壁古戦場のホームページ(中国語)をご覧ください。 なお、演技の時間は同ホームページの中の演出項目表をご覧ください。 |
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呉の水軍の砦です。 30万の兵力を有する曹操軍を長江対岸の烏林に見ながら、わずか3万の孫権・劉備軍の兵士は何を思っていたのでしょうか。しかも、対岸の烏林からは毎晩のように歌や踊りで騒いでいる様子が伺え、曹操軍がいつ攻めてくるのか、また、それが自分が生涯を終えるときではないか、などと不安になっていたのではないでしょうか。 上の写真は長江の河川敷に作られた呉の水軍の砦ですが、質素な布張りのテントのような造りで、申し訳程度に防護柵があるだけという簡素な造りです。ここで戦いのときを待っていた兵士たちも、まさか周愉が火攻めに好都合な東風が吹くのをじっと待っていたのだということは、決して知らされていなかったのです。 |
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三国赤壁古戦場の入口です。これが呉軍陣地の構えでもあります。私たち観光客にとっては、この入口からして、赤壁の遺跡に来たという感動が生まれます。 |
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上の写真は、周愉と諸葛亮による閲兵風景です。私たちが赤壁古戦場の入口を入ったときに、ちょうどこの閲兵風景の演技が始まっていました。奥で白い服を着て立っているのが諸葛亮で、その右側に座っているのが周愉です。 |
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この写真ですと、諸葛亮とその右にいる周愉の姿がよく見えます。 しかし、私が短パン、Tシャツでも汗だくになってしまうこの夏の赤壁の気候の中で、よくぞこんなに厚くて重い衣装をつけしかも走り回るものだと感心してしまいます。 実際の赤壁の戦いは冬ですから、やはりこんな鎧を着けて戦ったのは間違いないことなのですが、……。 |
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赤壁の戦いにおける孫権・劉備軍の勝因にはいくつかあります。そのなかで、私が特に重要だと思っているのは、次の三点です。 まず、最大の勝因は「火攻め」という手段を選択し、赤壁から烏林への追い風となる東風が吹く日をじっと待ったということです。ここで諸葛亮が赤壁にある南屏山で、東南の風が吹くよう祈ったという話が三国志の中に出てきますが、中国の「三国演義」の中でもこの記載があるそうです。上の写真は、赤壁古戦場の中にある赤壁大戦陳列館(博物館)に掲示されていたものですが、ここでも天文学と地理に通じていた諸葛亮は冬至の前に東南の風が吹く日があることは知っていたと解説されています。 |
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諸葛亮が東南の風が吹くのを祈ったその南屏山の場所には、上の写真のような建物が建てられていて祈った場所自体の跡はありません。ただ、この建物には拝風台という名が付けられています。また、建物の中は武候宮(「武候」とは諸葛亮のこと。)となっていて、諸葛亮が祀られています。三国志ファンとしては、諸葛亮が祈った台を再現しておいて欲しかったなと思います。 |
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その武候宮に飾られている絵の中の一枚に、諸葛亮と魯粛が藁葺きの船で長江を烏林の曹操軍陣地の方へ趣き、10万本の矢を手に入れたという逸話がありました。これも中国でも有名な話なんだなと思うと、なんだか嬉しくなってしまいました。この10万本の矢も、孫権・劉備軍の勝利に大いに貢献したのは間違いありません。 |
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さて、孫権・劉備軍の勝因の二つ目は、前述した黄蓋の「苦肉の計」です。黄蓋が投降すると見せかけて烏林の曹操軍に向けて火をかけた船を突っ込ませたという話です。 いくら東南の風が吹いたとは言え、火のついた船を、しかも大量の船を曹操軍の船にぶつけないと火攻めは成功しなかったでしょうから、この黄蓋の「苦肉の計」なしには孫権・劉備軍の勝利はなかったといえます。 |
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そして、孫権・劉備軍の勝因の三つ目は、ホウ統の「連環の計」にあったと考えています。ホウ統の「連環の計」で、曹操軍が船をつなぎ合わせてしまっていたからこそ、曹操軍は船火災の延焼を防止することができなかったわけで、赤壁の戦いにおけるホウ統の功績は大きいといえます。 上の写真は鳳雛庵というホウ統の庵で、現在、ホウ統の像が安置されています。 |
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この?統の策を曹操軍に信じ込ませるための仕掛けが、上の写真にある周愉が?幹に偽手紙を盗ませたという件です。周愉の旧友で功名心の強い?幹を使ったこの仕掛けにより、劉表軍の水軍の将で曹操に降っていた蔡iと張允に裏切りの恐れありと曹操に信じ込ませ、水軍に詳しいその二人の将を曹操に殺させてしまったというくだりです。 ?統の「連環の計」が成功した背景には、曹操軍に水軍のプロフェッショナルがいなくなったからということがあったわけです。 三国志が面白い理由の一つに色々な登場人物が描かれているということがあります。ここに出てくる?幹などは英雄気取りの嫌な奴なのですが、こういう性格の男は現代でもいる(沢山いる)わけで、こんな?幹の話を読みながら、「俺の会社のあいつもこんな風だよな」なんて思ったりするのも、三国志に惹きつけられる理由の一つではないでしょうか。 |
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荊州領有問題 |
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孫権・劉備連合軍が赤壁で曹操軍を破った後、劉備は曹操を追撃して南郡に入りました。(南郡の位置については、上述のソフト「三国志地図」で確認すると良いと思います。「歴史事件」で「南郡の戦い」や「劉備奪取荊南四郡」などをクリックしてください。) 劉備は、まず荊州に劉表の長男、劉gを立てて荊州支配の正統性を内外に知らしめる一方で、荊州南郡四郡へ出兵し、武陵・長沙・桂陽・零陵をたちまち手に入れています。孫権や周愉から見れば、赤壁の戦いの延長戦として荊州方面で戦いを続けた劉備に、荊州方面を略奪されたということになります。 いずれにせよ、長坂の戦いで領地を全く失った劉備が、荊州支配から蜀への進出を経て、三強の一角としての地位を得たのは「赤壁の戦い」に続く「荊州南郡支配」がきっかけです。そうした意味で、魏、呉、蜀、三国によるせめぎ合いの構図は、赤壁の戦いに端を発しているともいえます。 |
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さて、赤壁の戦い後、「荊州領有問題」が劉備と孫権の外交問題になります。上の写真は「荊州領有問題」を話し合う諸葛亮と魯粛です。(鎮江市の甘露寺といって、孫権の妹、孫尚香と劉備がお見合いした寺にある像です。) 荊州を領有した劉備は、呉から荊州を返せと言われると、蜀を取ったら返すからそれまで待って欲しいと言い、蜀を取った後は関羽がウンと言わないからなどと言って、返そうとしません。劉備はこの荊州の問題で魯粛に問い詰められると、泣いて見せたり、怒って見せたり、困って見せたり、十分に面の皮の厚いところを見せてくれます。劉備にそうした知恵をつけたのが諸葛亮で、逆に人が良くいいようにあしらわれているように描かれているのが魯粛です。 |
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魯粛には、呉の力だけでは曹操を破るためには戦力が不足しているとの認識があって、同盟すべきその他勢力の一番候補である劉備軍との連携は、呉を発展させる大前提でした。赤壁の戦いやそれ以降の三国の歴史を考えれば、時間はかかったかもしれませんが、曹操との1対1での衝突を避けたことが、呉という国を長い期間守れた大きな原因なのですから、魯粛の柔軟性に富んだ沈着冷静な戦略は決して誤りではなかったと思います。 この魯粛と諸葛亮との間に信頼関係があったからこそ、赤壁での孫権・劉備連合軍が成立したわけで、この二人の関係を抜きに「赤壁の戦い」を語ることはできません。 ところで、因みに中国で、「劉備借荊州(劉備が荊州を借りる)」という語は、「借りるだけで返さない」という意味になります。 上の写真は赤壁山から見た長江(揚子江)です。 |
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