203高地 |
海外遺跡の旅「中国東北地方に高句麗文化を訪ねる」から転載 |
旅順は大連市中心部から約45q離れた場所に位置しています。現在は大連市旅順口区として大連市の一部となっていますが、もともとは1878年に清の北洋艦隊の根拠地となった場所で、1898年にロシアが租借してから開発が始まった大連よりも少し前から開発されていた地域です。 旅順港は上の地図からも分かるように、遼東半島と中国大陸に囲まれた渤海の中でさらに半島により囲まれていて、波の少ない天然の良港として知られています。また、日本から見れば、中国進出への足掛かりとしてどうしても確保したい拠点でしたし、一方ロシアから見ると冬になっても凍らない不凍港としてのどから手が出るほど欲しい港でした。 そうしたことから、日清戦争後の下関条約により一度は日本陸軍に割譲が決まった旅順ですが、三国干渉により割譲は中止となり、1900年の北清事変後にロシアの租借地となった経緯にあります。 |
旅順は日露戦争時の日本(大日本帝国)とロシアの主戦場となったエリアの一つとして有名ですが、その時代の旅順はまさにロシアの租借地だった時期にあたり、ロシアは三国干渉に不満を持つ大日本帝国が必ず旅順に攻めてくるものと想定し、要塞や堡塁の建設を怠りなく進めていました。ロシアは準備万端で旅順に日本軍を迎え撃ったわけです。旅順における両軍の兵員の損害が、ロシア軍(戦闘員:4万5千、死傷者:1万8千余人、死者2〜3千人)に比較して日本軍(戦闘員:10万人、死傷者:6万212人、死者1万5千4百余人)が甚大だったことにはそうした理由があります。 その旅順の攻防の勝敗を決定づけたのが203高地の奪取であることは広く知られています。上の地図で緑のラインが引いてありますが、203高地に砲弾観測所を設置し、その観測所の指示のもとに、203高地の後方約3qにある高崎山に設置していた28サンチ砲などで旅順港を砲撃した結果、ロシアの旅順艦隊がほぼ壊滅したことはよく知られています。旅順港を見下ろせる203高地に着弾観測所を設けたことで、着弾を正確に誘導・確認できたので、文字通り百発百中の砲撃だったとされています。 |
その勝敗の分かれ目だった203高地には203高地慰霊塔が建てられています。203高地の頂上にあるのはこの慰霊塔だけです。 正直申し上げて、この203高地には当時を彷彿させるようなものは何も残っていません。それどころか、日露戦争の当時は日本軍兵士たちが身を隠すこともできない禿山だったのですが、現在は植林された木々が生い茂り、当時の面影は全くありません。 |
それでも私がかねてより203高地に登りたかったのは、203高地から見える旅順港をこの目で確かめ、なるほどここで着弾観測と誘導を行えば確かに百発百中の砲撃ができることを確信したかったからです。 ところが私が行った日は生憎の小雨模様で、上の写真のように、本来は旅順港が見える方向に何も見えませんでした。晴れているとこのような景色が広がるそうです。 |
さて、上の写真の通り、銃弾を形取った慰霊塔には爾霊山と書 なお、「203高地」という名前の由来は、標高203mの高地という所から来ているとされています |
慰霊塔の裏を見ると、様々な落書きがあります。落書きするためには土台の上まで登らないといけないのですが、そういう不届き千万な人間はどこにでもいるものです。安心したのはこれらの落書きが中国語、ロシア語と韓国語で書いてあって、その中に日本語の落書きが見えないことです。国のためにこの旅順で命を捧げた兵士たちの霊を祀るこの慰霊塔に、落書きをするような日本人は今後とも現れないことを期待したいものです。 |
203高地への行き方です。 大連からのバスや最近開通した高速鉄道を利用して旅順に入り、公共バスで203高地に行くことももちろん可能ではあります。しかしながら、特にこの203高地はとりわけ公共交通機関の便が悪く、バスで行くとバス停から203高地の頂上まで徒歩で1時間弱かかりそうなくらい離れています。一方、東鶏冠山は日本人以外の観光客も行くので比較的バス停から近いですし、水師営会見所は街中にあるのでバス停から近いのです。では、何故203高地には日本人以外の観光客が行かないのかと言うと、登っても何もないからです。「坂の上の雲」などで203高地を知っている日本人は、203高地からの旅順港を見て感激するかも知れませんが、日本人でなければその感慨に浸れないのでしょう。 ですから、203高地への行き方ですが、タクシーで行くことをおすすめします。大連のタクシーでも旅順のタクシーでもどちらでも良いのですが、バスの時間待ちによる時間のロスを考えれば、時間貸しでタクシーをチャーター方法がベストだと思います。価格的には大連でチャーターしても旅順でチャーターしても大して変わりはないので、大連・旅順間の移動時間を考えれば大連でチャーターした方が良いでしょう。 |
何もない203高地ですが、「坂の上の雲」などを読んだ人なら見ておきたい場所として、乃木大将の長男、乃木保典の戦死した場所があります。今は森の中ですが、ここも当時は樹も草もない禿山だったことは言うまでもありません。 |
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東鶏冠山 |
東鶏冠山は日露戦争の中でも最も凄惨な戦いが繰り広げられた戦場の一つです。激戦の跡は上の写真にある通り、東鶏冠山のトーチカ(コンクリート製の防御用陣地)の壁に今でも残っています。 鶏のトサカに似た形状をしているために名づけられたこの東鶏冠山の標高は海抜119mです。大連から旅順に向かって進軍してきた日本軍にとって、この東鶏冠山でこれほど多くの犠牲者を出すとは想像できなかったに違いありません。前述した通り、この東鶏冠山を含め、三国干渉の結果に不満を持つ大日本帝国軍が旅順に攻め込んでくることを想定していたロシア軍が、旅順港を囲む山々に沿って要塞と堡塁を築き上げていたからです。 日本軍が東鶏冠山を落としたのは、203高地を奪取(12月6日)した約10日後の1904年12月18日でした。 |
上の写真は東鶏冠山の案内地図です。ここにある通り、ロシア軍は半永久的な防御線としてコンクリート製の堡塁を建設していました。天然の岩にコンクリートと石、そして泥土で覆って造っています。当時は樹木もなく禿山の状態ですが、下から見たときにはここに頑丈な要塞があることなど想像できないようになっています。堡塁は不規則な5角形をして、周囲496m、面積9900uあります。内部の構造は複雑で、司令部、兵舎、弾薬庫、治療室や台所といった施設があり、堡塁の周囲には濠が、そして、堀の外の斜面には高圧電流が流れる鉄条網を架設されていました。 |
上の写真が濠の部分です。日本軍は右から左へ山を登ってくるところです。東鶏冠山の頂上は左側ということになります。 右側から山を登ってきた日本軍は濠の中に入るわけですが、トーチカが濠の右側から銃眼を開いており、この濠に降りた日本軍兵士はその背中をトーチカの銃口から狙われることになります。濠に降りて振り向き狙いを定めてトーチカの銃眼の中を撃とうとしても、その前にロシア軍の銃弾が自分の身体を何発も貫いてしまうのです。 |
この時ロシアが使用していたのはマキシム機関銃で、東鶏冠山の展示室に実物が展示されています。このマキシム機関銃は、1984年に開発されたもので大量に使用されたのはこの日露戦争が初めてでした。マキシム機関銃は試験で毎分600発を射撃できました。当時日本軍などで使用されていたライフルの約30丁分の火力を有していたと言われています。1秒で10発撃てたわけですから、この濠に降りてきた日本兵はひとたまりもありません |
上の写真はトーチカに降りる階段です。岩陰に作られています。 |
トーチカの内部です。右側が濠側、すなわち東鶏冠山の頂上側です。銃眼から陽の光が漏れています。左側は麓側でこちらには窓は一切ありません。すなわち、日本軍は山を登ってくるときには、ここにこれほどの要塞があるとは全く想像できないようになっているのです。そして、濠に降りたところを背後から狙われることになるのです。 |
上の写真はトーチカの銃眼です。恐らくは手榴弾などを使って銃眼を広げようとした後だろうと思うのですが、もともと岩をくりぬき、コンクリートでさらに頑丈に固めたこのトーチカには歯が立ちません。 ロシアが1900年に租借を受けて以降、当時世界最強と言われたロシア軍が4年かけて作り上げた要塞は、日本軍の想定を超えたはるかに頑丈な要塞だったのです。 |
いくつかの銃眼の周りはこのように日本軍兵士によるライフル銃の弾痕が無数に残っています。背後からマキシム機関銃で連射されながらも、これだけ撃ちかえした日本軍兵士たちの戦いぶりは想像するに壮絶なものだったに違いありません。ですが、この頑丈なロシア軍のトーチカはライフル銃による攻撃ではびくともしなかったのです。 |
結局、このトーチカ(コンクリート製の防御用陣地)を含めた東鶏冠山の堡塁を陥落させたのは爆薬でした。堡塁に向かって掘り進めた坑道から爆薬を仕込み爆破させたり、203高地陥落以降は、203高地の砲弾観測所の指示のもと、高崎山に設置していた28サンチ砲で砲撃したりしてトーチカを破壊し、ライフルを持ってトーチカの中で近接攻撃を仕掛けたわけです。 |
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東鶏冠山のロシア軍堡塁には様々な施設があることについては既に触れましたが、上の写真はロシア軍兵士の宿舎です。実際には、このスペースは二階建てになっていて、その二階の床がなくなってしまっている状態です。これだけ頑丈な宿舎ですから、夜間に攻撃されてもびくともしません。 |
上は、トーチカの構造が分かる写真です。四角いコンクリートと中央の柱は、補強のために戦後追加されたものです。岩をくりぬき、コンクリートで固めている様子が分かります。 |
上の記念碑は、ロシア軍の陸軍防御司令官コントラチェンコ少将の死を追悼する碑で、日本軍が建てたものです。コントラチェンコ少将は、この場所にあった堡塁の会議室で28サンチ砲による砲撃により1904年12月15日に爆死しました。コントラチェンコ少将は強いリーダーシップでロシア軍兵士の士気を鼓舞し、日本軍の進撃を大いに悩ませました。敵ながらあっぱれという尊敬の念がこの碑の建立になったのでしょう。 なお、同少将の死後ロシア軍の抵抗が弱くなり、日本軍がとうとうこの東鶏冠山の堡塁を占領したのは12月18日でした。 |
上の写真左は東鶏冠山の展示室に展示されている28サンチ砲の砲弾、右側は従来日本陸軍が使用していた砲弾です。その大きさの違いは顕著であり、その破壊力は数倍にも及ぶものだったに違いありません。28サンチ榴弾砲というのは、もともと対艦用の海岸砲として日本内地の海岸に配備されていたものを、旅順での苦戦を打開するため、急遽日本から大連に運び、攻城砲として使用したものです。最終的に18門が使用され、延べ16,940発の弾がを発射されたと言われています。この28サンチ榴弾砲なしに、旅順攻城戦での日本軍の勝利はなかったと言えます。 |
この東鶏冠山の堡塁を陥落させるために命を落とした日本軍の兵士は約8千人いました。その兵士たちの霊を弔う慰霊碑が東鶏冠山の頂上近くに建てられています。トーチカの周りの弾痕や頑丈な構造を見た後では、兵士たちの命をかけた戦いぶりに追悼と感謝の思いで手を合わせないわけにはいきませんでした。 |
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水師営会見所 |
旅順の水師営会見所は、旅順攻防戦の停戦条約を交わした場所として知られています。この停戦条約の調印には、代表として日本からは乃木希典大将が、ロシアからはステッセル中将が出席し、契約を締結しました。 なお、水師営というのは旅順にある地名です。もともと水師というのは水軍を意味していて、水軍の駐屯地は水師営と呼ばれています。ですから、水師営という地名は中国沿岸部にはいくつか残っていて、旅順の水師営もその中の一つです。 |
上の写真は調印に利用された建物で、基礎は当時のままを使っていますが、窓から上は1996年に復元したものだそうです。もともとは農家の民家ですが、日露戦争当時は日本軍の野戦病院として利用されていた建物です。 屋根の葺き方や建物構造、内装、室内の床(単に土です)など、地元の中国人に聞いてみると、当時のままだそうで懐かしい感じがするそうです。 |
ロシア軍の弾丸の跡が棗(なつめ)の水師営の樹に残っているなどという話は有名ですが、その棗の樹も当時から4代目となっていて、もちろん弾痕などが残っているはずもありません。 この会見所に利用された建物はかつては入場料など徴収していなかったのですが、あまりにも多くの日本人が来るようになったため、土産物屋を作ったり建物を改装したりしたうえで、入場料を徴収するようにしています。この棗の樹も日本人が必ず確認するものですから、このように囲いまで作って保存に努めているそうです。 |
上の写真は調印に使われたテーブルです。といっても当時のままなのは、机の上の台だけで、机の脚などは同じようなものをそろえただけです。机の上の台は野戦病院の手術台として使用されていたものを利用したそうです。 当時の医者の文字もこの手術台には残っています。 |
水師営での停戦調印の参加者の写真です。乃木大将、ステッセル中将のほか、伊地知参謀長の姿も見えます。 |
上は水師営に向かう途中のステッセル中将の写真です。写真の白馬がステッセル中将の愛馬で、停戦調印後、乃木大将に贈呈されたそうです。 |
乃木希典は詩作を趣味としていたことはよく知られています。旅順攻防戦を終え、多くの将兵を失った戦場を訪れたときに詠んだ作品が、この会見所の中に飾られています。この会見の時に詠ったものではなく、あくまでも観光地としてのムードアップのために置かれているものです。 この作品は、日本人の漢詩としては最も優れた作品の一つとして中国では知られています。 |
せっかくですから、内容をご紹介しましょう。 乃木希典「金州城下作」 山川草木轉荒涼 山川草木転(うたた)荒涼 十里風腥新戰場 十里風腥し新戦場 征馬不前人不語 征馬前まず人語らず 金州城外立斜陽 金州城外斜陽に立つ 内容は以下の通りです。 金州城外の山川も草木もことごとく荒れ果てて実にさびしい限りである 十里に渡る戦場は風もまだ血臭いままである この酸鼻な様子を眼前にして、馬は進まず自らも声を失ってしまう 夕陽の金州城外に立ち、ただただ感慨無量である 凄惨な旅順攻防戦を終え、多くの将兵を失った最高指揮官の思いがこの詩には込められていると思います。また、長男までも失った父親としての悲しみもうかがい知ることができます。なるほど、印象深い詩だと思います。 |
旅順に関する本 |
旅順鉄道駅と旅順の街 |
旅順観光と言うと、どうしても203高地をはじめとした日露戦争ゆかりの地を回ることになってしまうのですが、旅順の旧市街にもいくつか見ておきたい場所があります。 一つは上の写真にある旧旅順駅です。1901年にロシアにより建設された駅舎が今も |
ただ、今年(2015年)から大連旅順間の列車は廃止され、現在は鉄 |
さきほど旧旅順駅の駅舎には鉄道が通っていないということを申し上げましたが、上の写真の通り、旅順駅という文字がここには残っています。 旅順にはこの旅順駅以外にもロシア風建物が数多くみられます。旧大和旅館もその中の一つですが、こちらは屋上の飾りがなくなってしまってロシア風ではなくなっています。 |
上の写真は、旅順の街を通っていてふと目に留まった住宅街です。平屋建ての家が並んでいます。再開発で古い街並みがどんどんと消えていく大連ではあまり見かけない街の風景です。 |
この建物の瓦を見ると、日本瓦のように見えませんか。ひょっとしてこの建物は日本統治の時代の建物がそのまま残っているのではないかという気がしたものですから、思わず写真を撮らせていただきました。 |
上の住宅がある通りです。都市計画まではロシアの手によって行われ、建物建設は一部を除き日本統治時代に行われた旅順ですから、この地域の住宅が日本統治時代のまま残っていても全く不思議ではないのです。 どこもかしこも再開発で掘り返されてしまう中国ですが、旅順はその人口の約半数が海軍関係者であることから再開発されずに昔の街並みが多く残されています。もう大連ではほとんど見られない日本統治時代の名残も、ここ旅順の街をもっと探せば見つかるのではないかと思います。 |