杜甫草堂とは |
杜甫は李白と並んで唐代を代表する詩人で、律詩の表現を大成させた人です。唐の官吏でしたが、玄宗皇帝が楊貴妃にうつつを抜かし安史の乱が起こるとともに飢饉なども重なった結果、洛陽や長安での官吏の生活を捨てて、流亡の生活をすることになります。成都はそうした杜甫の流亡の過程で杜甫が4年間過ごした場所であり、杜甫は親友の援助も得て草堂を建てて暮らしました。その草堂が杜甫草堂です。 杜甫の作品には有名な詩がたくさんありますが、日本人でもほとんどの人が「国破れて山河在り、城春にして草木深し」で始まる「春望」という作品は聞いたことがあるのではないかと思います。 |
杜甫草堂は成都市街の西寄りの場所にあって、広さ約10万㎡もある広大な場所です。茅葺屋根の建物も多くありますが、杜甫が建てたオリジナルの草堂は戦火で失われたため、現存する建物の多くは、明代や清代に建て直されたものです。 上の写真は杜甫が居住していた居宅で、建て直したものとはいえ、古風かつ質素で杜甫の居宅らしい建物です。 |
上の写真は少陵草堂という建物で、杜甫草堂というとこの建物の写真がよく紹介されています。この少陵草堂と居宅はほど近い場所に建てられ、この一帯には水路や林などが巧みに配置されていて、杜甫が住んでいた当時の雰囲気を醸し出しています。 |
戦乱を逃れ成都に来た杜甫はこの草堂に約4年間住んで、今残っているだけでも430首もの詩を成都で詠んでいるそうです。実際にここに来てみると、平和で穏やかで清らかで素朴な場所で、悪く言えば寂しすぎるような環境です。 杜甫の詩には社会の現状を憂いたものや社会や政治の矛盾を採り上げたものが多いですが、ここ成都に来て平和で穏やかな環境の中で自分の半生を振り返り、より良い社会、理想の社会を思い描きながら社会や政治の問題を詩の題材として採り上げていたのです。 |
杜甫草堂内の環境は桃源郷とまでは言いませんが、このように美しい庭園があって、詩を詠むには理想的な環境です。杜甫が年に直せば100首以上の詩を次々に詠むことができたのも、ここ杜甫草堂の平和で穏やかな環境があってこそなのでしょう。杜甫が生活した史跡は中国内にいろいろありますけれども、まさに杜甫が詩作に没頭した場所がここ成都の杜甫草堂なのです。 |
杜甫の詩を時代を追ってよく見ると、唐の統治が乱れ始めたころから成都に逃れてくるまでの間に詠まれた詩には、政治の腐敗や戦乱の悲惨さを伝えるものが多い一方、ここ成都に来たころから後に詠まれた詩にはそうした社会の閉塞感を人間に与えられた所与の環境としてとらえ、そうした中で力強く生きていくことこそ人間の素晴らしさであるといった人生を達観したような雰囲気が多いと私は思います。 このように杜甫の詩に変化を起こさせたのがこの成都の杜甫草堂の環境なのではないかと私は思うのです。杜甫草堂は私にそんな気持ちにさせる雰囲気たっぷりの場所でした。 |
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杜甫草堂を歩く |
さて、杜甫草堂の中を順を追って紹介しましょう。上の写真は杜甫草堂の入口です。安っぽい建物で、正直言ってテーマパーク的なつまらない観光地ではないかと疑ってしまいます。思わず入場するのをためらう気持ちも芽生えましたが、せっかく来たので入ってみたというところが本音です。 |
杜甫草堂は杜甫草堂博物館という敷地の中にあります。この敷地内はきれいに整備されていて散歩しているだけでも気持ちの良い場所です。 |
敷地内の竹林です。杜甫が住んでいたこんな竹林に囲まれていたのだろうなと想像してしまいます。竹林の道を歩きながら私も詩を詠みたい気持ちになります。 |
上の写真は一覧亭という塔です。雰囲気のある塔ですが、杜甫にゆかりのある建物でもありませんし、中に入って上ることもできません。 杜甫草堂にはもう一つ万佛楼という塔もあります。この塔ももともと清代に建てられた塔を再建したものです。立派な塔ではありますが、杜甫草堂博物館の敷地内に建てられたというだけで、おそらく、清代に杜甫草堂を再建したころに建てられた塔だということだけの意味合いでしょう。 |
工部祠の西側に小山があります。この小山を歩くと、竹林を歩いた時以上に詩作の意欲が湧いてきます。上の写真は小山の途中にある六角形の茅葺建物で気香亭です。この辺りは観光客が比較的に少ないですから、ここに座って耳を澄ますと杜甫が住んでいたころの樹々のざわめく音や鳥のさえずりなどが聞こえます。 |
そんなに立派な庭園ではないですが、このあたりはいわゆる中国庭園の築山になっています。 私が行ったのは12月上旬ですが、ところどころに植えられた紅葉が良いアクセントになっていました。 |
杜甫草堂が最も美しくなるのは春の花々が咲き誇る時期だと聞いています。12月ですと花はなく、代わりに色鮮やかな紅葉が杜甫草堂を彩ります。 |
そんな風に園内をぶらぶらしながら、杜甫草堂の茅葺の旧居のあるエリアに向かって歩いていきます。 上の写真はすでに紹介した少陵草堂です。少陵草堂まで来れば茅葺の旧居はもう目と鼻の先です。 |
茅葺の旧居です。ここは一番の写真ポイントなので、土日のように観光客が多い日は写真のポーズをとっている人が多くて、なかなか無人状態にはなりません。 杜甫草堂博物館の園内は道標がしっかり分かりやすく建てられているので、道に迷わずに辿り着けるはずです。また道に迷ったとしてもそのまま歩いていけばそのうち道標が出てきますから、そこで自分の位置を確認して歩きだせば問題ありません。杜甫草堂記念館は園内に見るべき場所がいろいろありますから、むしろ道に迷った方が思いがけない発見をするかもしれません。 |
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いよいよ草堂旧居へ |
杜甫が成都で詠んだ詩の中に、「茅屋為秋風所破歌(茅葺の屋根が秋風により吹き飛ばされことを歌う)」があります。上の図はその詩の全文とその様子を描いた絵をこちらのサイトから拝借しています。 この絵などを見ると、まさにここ成都の杜甫草堂で起きたことを詠ったもののような気がします。 |
草堂旧居は杜甫草堂の中でも最も人気のあるエリアですから、「茅屋為秋風所破歌(茅葺の屋根が秋風により吹き飛ばされことを歌う)」については後ほど解説していくこととして、まず、草堂旧居について説明します。 上の写真は旧居前の門です。茅葺の門で、ここが一番の写真スポットなのでしょうか。とにかく無人になることがありません。 |
門の柱の部分の模様です。気をつなぎ合わせただけの質素な門です。中国の住宅では門や柱などに彫刻を施すものが多いのですが、杜甫草堂にはそうした彫はなく、まさに質素な装飾です。 |
杜甫の旧居の屋根です。この茅葺の屋根が暴風により 茅屋為秋風所破歌 八月秋高風怒號 卷我屋上三重茅 茅飛渡江灑江郊 高者掛絹長林梢 下者飄轉沈塘坳 南村群童欺我老無力 忍能對面為盜賊 公然抱茅入竹去 唇焦口燥呼不得 歸來倚杖自歎息 俄頃風定雲墨色 秋天漠漠向昏黑 布衾多年冷似鐵 驕兒惡臥踏裏裂 床頭屋漏無乾處 雨脚如麻未斷絶 自經喪亂少睡眠 長夜沾湿何由徹 安得廣廈千萬間 大庇天下寒士倶歡顏 風雨不動安如山 嗚呼 何時眼前突兀見此屋 吾廬獨破受凍死亦足 |
どんなことを詠んでいるのか、現代語に訳してみると、次のようになります。 八月の秋空は高く風は怒り叫ぶようだ。私の家の屋上に三重に葺いた茅の上を巻いている。茅は飛んで川を渡り、川の向こうにまき散らす。高く飛んだ茅は高い林の小枝にまといつくように引っ掛かり、下の方を飛んだ茅はつむじ風が舞うようにぐるぐる回って水たまりに沈んでいく。 南の村の子供たちは群れをなして 我が年老いて力がないことを侮り私が黙っていると目の前で泥棒をして公然と茅を抱えて竹やぶの中に去っていく。唇は焦げ口は乾いて呼んでも追いつけず家に帰って杖にもたれてため息をつくばかりだ。 しばらくすると、風は止まり雲は墨色のように黒くなってきた。秋の空は総て夕暮れのように薄暗く覆われてきた。 長年使った布団の布は冷たくなって鉄のようである。その布団も寝ぞうの悪い子供たちが使って裏が破れてきた。寝床の頭の方は雨漏りのため乾くことがない。その雨漏りの雨足は麻糸の如くいまだ止まることはない。 世が乱れて以降ぐっすり眠れなくなった。長い夜の心は湿りがちでそのまま朝が来ることさえもある。もし部屋が千も万もあるような大きな家に安住できたならどんなに安心できることか。もし国が大判振る舞いの庇護をしてくれたら、私のような貧乏学者はみんな大喜びし、風雨でも泰山のように安全に心を悩まさずに済むものを。 ああ! いつになったら目の前にそびえる様な大きな我家を見る事ができるのだろうか。いや 贅沢など言ってはいけない。我が家の屋根が壊れ、たとえ凍死するような事があろうとも、私は友人からの援助だけで心は充分満足なのである。 |
この詩をよく読んでみると、先ほども書いたように世の乱れを嵐の様子に例えて世の中を憂いていながらも、最後は友人の援助でこうして成都に質素ながらも居を構えて暮らせることへの満足感を詠っています。成都以降の杜甫の作品には、社会の閉塞感を人間に与えられた所与の環境としてとらえ、そうした中で力強く生きていくことこそ人間の素晴らしさであるといった人生を達観したような雰囲気が多いと書きましたが、この作品などはまさにその典型です。 詩の内容をもう一度読んでいただきたいのですが、目の前に情景が見え、色までが容易に想像でき、人物の顔が想像できるという素晴らしい表現力と、誰が読んでも単に情景を詩にしたかっただけではなく、当時の杜甫の心の情景までが現代を生きる私たちもくっきりと映し出すことができる名作だと思うのです。 |
さて、それでは草堂の中を少し紹介しましょう。 上の写真は書斎です。家具などは新しいものが置かれていますが、できるだけ質素なものが置かれています。実際にはおそらくもっと質素な家具だったと思われます。小さな窓が一つあるだけの寒々とした書斎です。 |
上の写真は客間でまさに粗末なものです。天井も映しています。茅葺の屋根ですから天井もこのように質素なものです。成都は夏は暑いですが、冬の寒さはそれほどでもありません。夏に直射日光を遮ることができれば、快適とは言えないものの、ある程度我慢できる居宅だったような気がします。 |
上の写真は寝室です。まさに雨露をしのいで眠るだけの寝室です。先ほど見ていただいたような天井ですから、雨漏りはしょっちゅうだったでしょう。 こうした環境の中で、杜甫は4年間の成都での生活を送ったのです。そこで詠まれた詩といに人生をかなり達観した内容のものが多いのも、こうした環境が影響しているのでしょう。また、戦乱から距離を置き、少なくとも命の安全という点では心配のない成都という地に住んだことも、杜甫の作品に大きな影響を及ぼしたことは言うまでもありません。 |
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杜甫と李白 |
杜甫と並んで唐代を代表する詩人に李白(701~762)がいます。李白は、杜甫(712~770)より11歳年上で、杜甫を“詩聖”とするのに対して、李白は“詩仙”と称されています。もう少し砕けて言うと、杜甫は官吏として役人経験があり唐の没落とともに戦乱を避ける中で成都で詩を極めていますが、特に成都以降は律詩の表現を大成させるなど、学者肌の詩人と言えます。 。 |
一方、李白は「詩仙」とも言われますが「酒仙」とも称されるほどの酒好きで、生活ぶりも仙人のような傍若無人ぶりだったようで、儒教の教えに厳格な杜甫とは大違いだったようです。こうして絵で見ると、そんな性格は全くうかがいしれません。 唐代以降、白居易など杜甫に学んだという詩人は少なくないのですが、李白に学んだという詩人の名はあまり聞きません。日本の松尾芭蕉も杜甫に傾倒していたように私は思います。 |
この二人が初めて出会ったのは、杜甫が32歳の時に洛陽で仕官をしていた時です。以来、大変気の合った二人は、詩人としてお互いを尊敬しあい、生涯を通じての友人関係にありました。そんな二人のエピソードもここ杜甫草堂博物館では紹介されています。 |
成都は杜甫が詩人として最も充実した時間を送った場所でその拠点が杜甫草堂です。杜甫草堂博物館にはそんな杜甫の作品を紹介した建物もあったりして杜甫のファンや研究家にはたまらなく魅力的な場所です。また、杜甫のファンでなくても、このページで紹介してきたように、一定程度楽しめる場所ではあります。 実は私も杜甫草堂に行くので、事前に杜甫の作品を読んだり生涯を調べたりしたのですが、そうした準備があれば、随分と興味深く観光できるスポットです。成都に来たらぜひ立ち寄ってみてください。 |