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成都武候祠と諸葛孔明|成都と武候祠

(2017年1月2日以来)

武候祠と諸葛孔明−成都と武候祠Chengdu

武候祠と諸葛孔明

武候祠の諸葛孔明像(成都武候祠博物館)

 三国志は中国の後漢末期から三国時代まで、西暦で言えば180年から280年ごろまでの中国の戦乱の時代における魏、呉、蜀の三国の争いを描いたものです。単なる戦争の歴史を描いた内容ではなく、物語に出てくる1200人以上とも言われる登場人物の個性が読み手の心をくすぐる内容であることが、中国のみならず日本でも人気を博している理由だと私は思います。1200人もの登場人物がいると一人くらいは自分に似た性格の登場人物がいたり、上司や友人の性格に似た登場人物が出てきたりで、話にどんどん引き込まれていってしまいます。
 そんな登場人物の中でひときわ人気を誇るのが諸葛亮、すなわち蜀の丞相、諸葛孔明です。自分が諸葛孔明に似ているなどと自惚れる人は殆どいないでしょうが、三国志のファンの中で諸葛孔明に惹かれる人は数多いのではないかと思います。その爽やかで知的で、それでいて情に深い描かれ方は、数ある三国志慣例の小説に共通しています。

 このページで紹介する武候祠は、そんな諸葛亮の功績を称え、神として祀っている場所です。諸葛孔明はその死後、武候と諡(おくりな)されています。この諡をつけて武候祠と呼んでいるものです。武候祠は中国内にいくつかありますが、なかでも有名なのが成都市と河南省の南陽市にあります。このページで紹介するのは成都武候祠です。

武候祠の「名垂宇宙」の額

 「名垂宇宙」。武候祠の柱の上の額に書いてある4文字は「高名は宇宙に響き渡っている」という意味で、諸葛孔明の高名は誰でも知っているということを意味します。この4文字は後ほど紹介する諸葛八卦村(諸葛孔明の子孫が隠れ住んでいた浙江省にある村)でも見られるものです。

成都武候祠の「名垂宇宙」の意味
 
 もともとこの4文字は杜甫が766年(唐の時代)に詠んだ七言絶句「詠懐其五」に出てくる表現です。杜甫は七言絶句「詠懐其四」で白帝城と劉備に触れ、七言絶句「詠懐其五」で諸葛孔明を讃えています。杜甫は唐末期に混乱の中で都を追われ、成都に3年間ほど滞在していましたが、その際に武候祠を訪れた時に詠んだ七言絶句です。

武候祠の「名垂宇宙」のもとは杜甫の詩

 七言絶句「詠懐其五」の原文は上の通りですが、これでは意味が分からないでしょうから、下に分かりやすく翻訳します。

 諸葛孔明の高名は太陽や月の光と同じように永遠の宇宙に存在している。
 祠堂に入り遺像を仰ぎ見れば、遺像は粛然としていて清高だ。
 「天下三分の計」を献策したその姿は青空に舞う鳳凰の羽を見るが如くだ。
  (諸葛孔明の策の独創性や知恵を最大限に評価した比喩的表現)
 諸葛孔明に匹敵する人物は伊尹と呂尚(共に古代の名宰相)だけで、
 諸葛孔明が指揮を定めれば、蕭何も曹参(共に漢代の賢臣)もかなわないであろう。
 運に恵まれず漢による天下統一(再興)はできず、
 高い志を持ちながらも軍務の労苦で帰らぬ人となってしまった。

 杜甫が武候祠を訪れ、諸葛孔明の姿を思い浮かべつつ、唐の没落を憂い我が力の及ばざることを憂いた詩のような気がします。いずれにしても、この詩の中で杜甫が諸葛孔明の偉業を礼賛し、その言葉が今も語り継がれているということになります。


 劉備が「天下三分の計」により蜀を建国したことにより、上の図のような三国鼎立が実現したわけで、諸葛孔明に出会うまでは弱小な存在であったに過ぎない劉備が歴史に名を残したのは、諸葛孔明の存在があったからに他なりません。
 そうした意味で、劉備は善政を敷いた君主として評判は高いにもかかわらず、諸葛孔明の人気が劉備の人気を後世になっても凌いでしまっているわけです。ここ成都武候祠は、劉備の墓(恵陵)に隣接して建てられていますが、武候祠の中に恵陵があるという変な構造です。タクシーに乗ってもバスに乗っても、恵陵ではなく武候祠が目的地です。成都での三国志の主役はあくまでも諸葛孔明なのです。

武候祠の「勲高管楽」の額

 武候祠の柱の上にはもう一つ、重要な4文字があります。「勲高管楽」と書いてあります。「管」は春秋時代の斉桓公賢相である管仲を指しています。「楽」は戦国時、燕昭王大将だった楽毅です。 意味としては、諸葛孔明の勲は、管、楽の二人より高いということです。
 ここ武候祠は祠です。ですから、諸葛孔明はここ武候祠の神様です。前置きのの堅苦しい紹介が長くなりましたが、人々が崇め尊敬する諸葛孔明とその一族について、以下に紹介していきます。



武候祠と諸葛一族

成都武候祠博物館入口

 バスやタクシーなどで武候祠まで来ると、その入口には漢昭烈廟という看板が大きく掲げられています。漢昭烈廟というのは劉備の廟のことを言います。劉備には昭烈帝という諡(おくりな)がありますので、漢の昭烈帝の墓という看板になるわけです。
 その下の縦書きの看板には、右側が全国三国文化研究センターと書いてあり、左側を見るとそこに初めて成都武候祠博物館の文字が見えるわけです。この武候祠が面している大通りも武候祠大街という通りですし、成都の街の人も武候祠と呼んでいるのですが、入口の看板は劉備の墓になっているわけです。

成都武候祠博物館の地図
上の地図をクリックすると大きな地図が開きます。

 武候祠に入るときは入場料を取られます。この入場料を支払って見れる範囲が上の地図全体です。これ全体が武候祠かというとそうではなくて武候祠はその一部です。ですから、このサイトではこの敷地全体を「武候祠博物館」と呼び、「武候祠」と言った場合は武候祠博物館の中にある武候祠そのものを指すことにします。なお、上の地図では小さくて見えないでしょうから、ここに大きな地図を用意してあります。

武候祠への入口の門(成都武候祠博物館)

 諸葛孔明が祀られ、諸葛孔明を含めた諸葛一族の像が降る武候祠は、武候祠博物館の入口を入り、漢昭烈廟を通り抜けた先にあります。大きな地図を見ていただくとわかりますが、入口(大門)、漢昭烈廟、武候祠と三義廟(関羽と張飛を祀った廟)が縦に一列に並んでいることがわかります。ですから上の写真の武候祠と書かれた門は漢昭烈廟を通り抜けた後に出てくるわけです。上の写真の門をくぐり、正面に見える建物内に諸葛孔明と諸葛一族が祀られています。
 なお、この武候祠博物館の敷地内には恵陵という劉備の墓があります。また、漢昭烈廟には武将廊と文官廊という廊下があり、三国志ファンなら耳にしたことのある蜀の武将や文官の像が並んでいます。

武候祠の諸葛亮像(成都武候祠博物館)

 いよいよ武候祠の建物に入ると正面に諸葛孔明の像があります。建物の入口の柱の上には先ほど紹介した杜甫の詩からとった「名垂宇宙」の文字が掲げられています。この像は1672年(清の時代)に彫られたものです。
 紹介するまでもありませんが、正しい名前は諸葛亮、字名(あざな)が孔明です。もっと詳しく言うと諸葛が姓で諱(いみな)が亮、そして字名が孔明です。諱(いみな)というのは産まれた時に親から付けられる名前で、親か目上の人しか使いません。ですから劉備は「亮」と呼びかけますが、張飛や関羽は「孔明」もしくは「軍師」と呼びかけています。呉の魯粛が諸葛孔明と親しくなっても「亮」と呼んでいる場面はなく「孔明殿」と呼んでいるわけです。
 このように字名(あざな)は一般に使われる名前で、社会に出る際につけられるものです。関羽の字名は雲長であり、張飛の字名は翼徳です。ですから私のサイトでは「諸葛孔明」という表記をし、「諸葛亮孔明」という言い方はしません。というよりも、「諸葛亮孔明」などという言い方はあり得ないのです。三国志研究家を自認する方の中に「諸葛亮孔明」と書いている人を時々見かけますが、そうした似非(えせ)研究家の先生方には、勉強を一からやり直していただく必要があります。

諸葛孔明の誡子書

 諸葛孔明の人気というのは、「天下三分の計」や「二虎競食の計」「駆虎呑狼の計」といった計略・知略の素晴らしさもありますが、今でも多くの人を惹きつけているのは劉備の死後も劉禅を補佐し蜀に忠誠を誓ったその生き方にあるのではないでしょうか。
 諸葛孔明は数々の名言を残していますが、なかでも私が最も気に入っているのが誡子書です。上の写真は武候祠に掲げられているです。誡子書とは、直訳すれば「子を戒める書」ということですから、誡子書は子孫に向けて諸葛孔明が残した書です。諸葛家の家訓と言っても良いと思います。

諸葛孔明の誡子書(諸葛八卦村)

 上の写真は諸葛八卦村(諸葛孔明の子孫が隠れ住んでいた浙江省にある村)の大公堂に掲げられている誡子書で、諸葛一族の人にはまさにこの諸葛孔明の教えが生きているのです。日本語で分かるように翻訳してみます。

夫君子之行,靜以修身,儉以養半
非澹泊無以明志,非寧靜無以致遠
夫學須靜也,才須學也。非學無以廣才,非志無以成學。
淫慢則不能勵精,險躁則不能治性
年與時馳,意與日去,遂成枯落,多不接世,悲守窮廬,將復何及。

○和訳

君子は静かに身を修め、質素に徳を養う。
無欲であることで志が明確になり、冷静でなければ道は遠い。
学問は静から、才能は学から生まれる。
学ぶことで才能は開花し、志がなければ学問の完成はない。

 私はこの中で、「無欲であることで志が明確になり、冷静でなければ道は遠い。(大志は成し遂げられない)」という部分と「学ぶことで才能は開花し、志がなければ学問の完成はない。」という部分が好きです。私が自分に常に言い聞かせているフレーズです。

武候祠の諸葛亮像(成都武候祠博物館)
 
 実際の諸葛孔明がこの彫像のようだったのかどうかは分かりませんが、武候祠に来て諸葛孔明の像を仰ぎ見て、さらにこの誡子書を目にすると、諸葛孔明に距離的に少し近づいた気持になります。人間のスケールや賢さ、誠実さといったものは彼に及ぶはずもありませんが、とうとう来たぞという気持ちにさせてくれるのです。
 そうした意味では、どうせ成都武候祠に来るのでしたら、三国志の小説(漫画ではだめです。あれでは人間心理まで描き切れていません。)をよく読んで、できれば諸葛孔明の名言集を斜め読みしてくるくらいの気持ちで臨むと、武候祠での感動が違います。

武候祠の諸葛瞻像(成都武候祠博物館)

 さて、それでは武候祠に祀られている孔明以外の諸葛一族について紹介します。上の写真は諸葛瞻です。諸葛孔明の息子です。彼は将軍として魏軍との戦いに臨み、263年に36歳で戦死ししました。幼少から書画の才能が豊かだったといわれています。像を見る限り諸葛孔明によく似ています。諸葛孔明は必ず羽扇を持っているので、羽扇を持っているか否かで判断できます。

武候祠の諸葛尚像(成都武候祠博物館)

 同じく諸葛一族で武候祠に祀られているのは諸葛尚です。彼は諸葛孔明の孫にあたります。父である諸葛瞻とともに魏軍と戦い、263年に戦死しています。生年は不明ですが、その時はまだ20歳未満だったとされています。像を見てもまだ子供のような顔をしていますね。

 諸葛一族の系譜(諸葛八卦村)
 
 上の写真は諸葛八卦村(諸葛孔明の子孫が隠れ住んでいた浙江省にある村)の大公堂に掲げられている諸葛一族の系譜です。諸葛亮の父である諸葛珪から、現在既に誕生している第55世(諸葛亮から数えると、第54世)まで記載されています。諸葛珪の子として、呉の孫権に仕えていた諸葛瑾の名や諸葛亮(諸葛孔明)の名があり、諸葛瞻が続いて、諸葛瞻の子供として尚と京が書かれています。

 
 
 この諸葛八卦村の地に、諸葛一族が住み始めたのは、西暦1340年前後と言われています。(恐らく、それまでは、浙江諸葛氏は浙江省の寿昌か、その近辺に住んでいたものと思われます。)
 その特徴は、村全体が九宮八卦の陣のように構築され、鐘池を中心にして八本の小道が放射状に外側へ向かって延びています。地図では分かりませんが、村全体が起伏に富んだ地に建設されていますので、とにかく迷路のような村です。外部から見つかりづらく不審者の侵入を防ぎ、不審者がいれば捕獲しやすいような構造になっています。日中戦争時代も日本軍に発見されなかった村です。

諸葛一族が住む諸葛八卦村の風景
 
 上の写真は諸葛八卦村に行った際に撮影したものです。諸葛八卦村の人口は約4,000人で、そのうちの80%が諸葛姓だと聞いています。もし、ここで「諸葛先生!」と私が呼びかけたら、8人か9人が振り向いてくれるのでしょうか? いずれにせよ、彼らは蜀の丞相、諸葛孔明の末裔です。そう思うと、嬉しいような、拍子抜けするような、そんな不思議な感覚です。
 路上だけでなく建物の中も、マージャンやトランプで遊ぶ人で一杯です。でも、皆さん、年恰好はこのくらいで、若い方が少ないようです。やはり若い人は、諸葛八卦村に住まずに、上海や杭州といった都会に出て行ってしまうのでしょうね。
 そんな片田舎にある諸葛八卦村ですが、孔明ファンの方や三国志ファンの方なら、ここ成都武候祠よりも諸葛八卦村の方がさらに感動的かもしれません。杭州から日帰りが可能で、早起きすれば上海からの日帰りも可能でしょう。詳しいことは姉妹ページの「諸葛孔明の子孫が住む村『諸葛八卦村』」を参照してください。



武候祠を歩く

武候祠の廊下(成都武候祠博物館)
 
 武候祠は先にも書いたとおり、諸葛孔明(武候)を神として祀っている場所です。後世の人が諸葛孔明の偉業を讃える気持ちの大きさを表すのは、一般的に祠の広さであり豪華さです。中国の村を歩いてもそうした先祖の偉業をたたえた祠はたくさんあります。そうした祠には新年など節目節目に参拝する人々の姿を多く見かけます。諸葛孔明のような有名な人にもなると、その命日(8月28日)や誕生日(4月14日)には大変多くの人が参拝に来ますから、広くないと受け入れきれないという問題もあるわけです。
 武候祠は諸葛亮殿(祠)、回廊と門がロの字型に建てられていて十分に広いですし、何と言っても劉備の墓(恵陵)の隣に建てられたということに、後世の人々の孔明に対する敬慕の気持ちを感じます。内装については、上の写真(回廊部分)にある通り、豪華とは言えないものの質実剛健な凛とした雰囲気を漂わせるものです。

武候祠の鐘楼(成都武候祠博物館)
 
 武候祠の諸葛亮殿(祠)の両側には鐘楼と鼓楼が建てられています。鐘楼と鼓楼というのは街の中心に建てられているのが普通ですから、鐘楼と鼓楼を持つ祠はやはり相当規模のものだと言わざるを得ません。上の写真は時刻を街の人々に知らせるための鐘楼です。

武候祠の鼓楼(成都武候祠博物館)
 
 上の写真は鼓楼です。恋老は時間を知らせることにも使われるものですが、むしろ、重大事態の発生や行事開始の時などに利用されていたものです。

武候祠付近の様子(成都武候祠博物館)
 
 武候祠近くの様子です。冒頭にも書いたように、武候祠は武候祠博物館の敷地の中にあって、武候祠博物館には劉備の墓(恵陵)など様々な施設があります。そうした施設が上のような塀などで区画されています。武候祠博物館全体をゆっり見て歩くと二時間くらいはかかると思います。

孔明苑(成都武候祠博物館)
 
 上の写真は孔明苑と名付けられた施設です。ちょうど改修中で立ち入り禁止だったため、中に入ることはできませんでした。孔明が使っていた道具類や発明した武器などが陳列されているようです。ここが見れなかったのは誠に残念ですが、次回の楽しみにしておきたいと思います。

 
 武候祠は三国志ファンの聖地と言われています。諸葛孔明研究(中国では今も多くの研究者がいるようです。)の中心もここ武候祠博物館にあります。そうした研究の成果はおそらく孔明苑の中で展示されているものと思われます。
 成都は劉備が蜀を建国し漢の再興を図った地です。諸葛孔明の策による三国鼎立が成った地です。そこに諸葛孔明の息遣いを訪ねたわけですが、成都の街自体は他の中国の都市と同様に都市化され、三国志や諸葛孔明の面影を残す場所ではありません。
 唯一ここ武候祠に来て、諸葛孔明や劉備らの彫像を仰ぎ見ている時間だけが、蜀の都であったことを感じさせてくれます。私はこれまでに、赤壁の古戦場桃園結義が行われた楼桑村諸葛八卦村(諸葛孔明の子孫が隠れ住んでいた浙江省にある村)劉備と孫尚香が見合いをした鎮江の甘露寺などを見てきましたが、マニアックすぎるのか、観光客はどこもあまり多くありませんでした。三国志の観光地で初めて多くの観光客を見たのがここ成都武候祠です。そうした意味で過去に行った場所に比較して、成都武候祠のアクセスははるかに良く宿泊施設なども整っていますので、三国志ファンなら一度は訪問してみて良い場所だと思います。ただ、感動という点では過去に行ったマニアックな場所の方が勝っているかなというのが私の偽らざる感想です。


三国志関連ページ(姉妹ページ)


諸葛孔明の子孫が住む村「諸葛八卦村」


赤壁古戦場


桃園結義の舞台、楼桑村





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