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劉備と恵陵|成都と武候祠

(2017年1月2日以来)

劉備と恵陵−成都と武候祠Chengdu

漢昭烈廟

成都武候祠博物館の入口には漢昭烈廟の文字がある

 三国志は中国の後漢末期から三国時代まで、西暦で言えば180年から280年ごろまでの中国の戦乱の時代における魏、呉、蜀の三国の争いを描いたものです。その三国時代に蜀を建国したのは劉備で、その劉備を武の面から支えたのが関羽と張飛、智の面から補佐したのが諸葛亮です。武候祠は、そんな諸葛亮の功績を称え神として祀っている場所です。諸葛孔明は死後、武候と諡(おくりな)されているので、この諡をつけて武候祠と呼んでいるものです。このように、諸葛孔明は今でも成都の市民に尊敬され愛されている人物なのです。
 では蜀を建国した劉備をしのぶ場所は蜀の都だった成都にないのかというと、それは武候祠の中にあるのです。バスやタクシーなどで武候祠まで来ると、その入口には漢昭烈廟という看板が大きく掲げられています。漢昭烈廟というのは劉備の廟のことを言います。劉備には昭烈帝という諡(おくりな)がありますので、漢の昭烈帝の墓所という看板になるわけです
 その下の縦書きの看板には、右側が全国三国文化研究センターと書いてあり、左側を見るとそこに成都武候祠博物館の文字が見えます。もともと劉備の墓が建てられた場所の隣に諸葛孔明の祠などが建てられ、それらをセットで観光できるように料金を設定したときに「武候祠入場券」なるものを作ってしまい、その後いつの間にか主客転倒してしまい、敷地全体が武候祠と呼ばれるようになってしまったのではないかと思われます。

武候祠博物館の地図
上の地図をクリックすると大きな地図が開きます。

 武候祠に入るときは入場料を取られます。この入場料を支払って見れる範囲が上の地図全体です。これ全体が武候祠かというとそうではなくて武候祠はその一部です。ですから、このサイトではこの敷地全体を「武候祠博物館」と呼び、「武候祠」と言った場合は武候祠博物館の中にある武候祠そのものを指すことにします。なお、上の地図では小さくて見えないでしょうから、ここに大きな地図を用意してあります。
 入口の看板は劉備の墓になっているけれども、敷地全体は武候祠博物館になっていますし、この武候祠博物館が面している大通りも武候祠大街という通りですし、成都の街の人もこの場所を単に武候祠と呼んでいて、劉備の影はなんと薄いのでしょうか。でもこれは、劉備に人気がないのではなくて、諸葛孔明の人気がありすぎるのです。

明良千古の額(成都武候祠博物館)
 
 このページでは武候祠博物館の中の劉備に関する施設について紹介します。諸葛孔明に関する施設、すなわち「武候祠」については別ページで紹介しています。
 大きな地図を見ていただくとわかりますが、武候祠博物館の入口(大門)を入ると、漢昭烈廟、武候祠と三義廟(関羽と張飛を祀った廟)が縦に一列に並んでいます。上の写真は入口(大門)と漢昭烈廟の間にある門で「明良千古」と書いてあります。「名君と良臣(賢臣)の話はいつまでも語り継がれる」という意味で、もちろん劉備(名君)と諸葛孔明(良臣)のことを評したものです。ところで、よくよく字を見ると「明」の字の偏が「日」ではなく「目」になっているので、日本では誤字ではないかとか当て字ではないかなどと言われていますが、そうではありません。この字は呉英(清代の将軍で四川提督も務めた)の筆によるもので、1696年(清の時代)に書かれたものです。清代にはこのように「明」の字の偏が「目」になっているものがよくあるのです。
 入口(大門)から入り、この「明良千古」の門をくぐり正面に見えるのが漢昭烈廟です。劉備の墓はその右手方向にあるのですが、武候祠と呼ばれながらも、入口から「明良千古」の文字を見てまず漢昭烈廟に行くという設計に、劉備に対する尊敬の念が感じられます。

漢昭烈廟(成都武候祠博物館)

 漢昭烈廟です。正面に劉備の像が見えます。大きく掲げられた「業紹高光」の4文字は、「明良千古」と並んで重要な意味を持つ額です。「業紹高光」とは劉備は高祖(漢を開いた劉邦)や光武帝(後漢の初代皇帝である劉秀)の業を引き継いだ(紹)という意味です。
 ここ武候祠博物館は恵陵を除くと清代初期に整備されているのですが、この時代の評価としては、少なくとも成都における評価は、劉備が建国した蜀は「漢」であるということを示しています。そう言えば、入口の門からして「漢昭烈廟」、すなわち漢の昭烈帝の墓所と書いてあったことに今さらながら納得してしまいます。私たちが歴史で習った漢には前漢と後漢しかありませんが、成都の人たちにはもう一つ、劉備が引き継いだ漢があるというわけです。

漢昭烈廟の劉備像(成都武候祠博物館)

 そうしたことを理解して仰ぎ見る劉備の像はやはり立派です。金色の服を着てどっしりと構えています。三国志でもよく表現されている劉備のふくよかで大きな耳もあり、民をいつくしむ心が表情に良く表れています。武候祠博物館の劉備は、蜀の劉備ではなく漢の劉備です。

恵陵は劉備の墓(成都武候祠博物館)

 武候祠博物館の中で劉備を偲ぶ場所は漢昭烈廟と恵陵です。上の写真は恵陵の周りを巡る道です。紅の壁に挟まれ両側に竹林という何とも気持ちの良い道です。上の写真で道の右側が恵陵でこの道が恵陵に沿って作られています。それだけ恵陵が大きいということです。恵陵については、後程また紹介します。



漢昭烈廟に祀られている劉備の一族


 上の図は三国鼎立が成立したときの勢力図です。諸葛孔明の献策もあって、広大な中国を魏、呉と蜀が分け合う形になったわけです。蜀は都を成都に置き、今の四川省や雲南省方面を支配していたことになります。中国の気候・風土を知らない方は、蜀は山の中を支配しただけのように思えるかもしれませんが、実は成都を含め四川省という地域は海こそないものの、夏は暑すぎず冬も温暖で、天賦の地と言われるほど豊かな土地です。ですから、広さの面だけでなく豊かさの面でも三国鼎立が実現できる支配地域を持っていたわけです。


 そして、劉備が関羽と張飛を失い、報復のため挑んだ夷陵の戦いで陸遜の火計に大敗を喫して失意のままこの世を去った場所が白帝城です。白帝城の位置は上の地図にあるように、成都と武漢(武?)のちょうど中間くらいにあります。上のGOOGLE地図で見た時に、当時の武漢(武昌)は語の孫権の勢力範囲で、襄陽は曹操の勢力範囲です。そして夷陵の戦いが行われたのが現在の宜昌(ぎしょう)です。ですから、夷陵の戦いに敗れた劉備は宜昌から白帝城まで兵を引いたことになります。
 そして夷陵の戦いの翌年、223年にこの世を去るのですが、臨終にあたって諸葛亮などを呼び寄せ、「劉禅が補佐するに足りないほど暗愚ならば、迷わず国を治めてほしい」との遺言を残した逸話が有名で、そうした遺言があったにもかかわらず諸葛孔明がその後も一貫して劉禅を補佐し続けた忠誠心も、諸葛孔明の人気の一つになっています。

漢昭烈廟の劉ェ像(成都武候祠博物館)

 さて、話を漢昭烈廟に戻します。漢昭烈廟に劉備とともに祀られている劉備の一族は上の写真の劉ェ(りゅうしん)です。
 魏軍が成都を攻略した時に、劉備の子で当時の王であった劉禅は投降した一方、劉禅の子(すなわち劉備の孫)の劉ェ(りゅうしん)は劉禅と決裂し城に残って魏軍と戦い、最後は自刎して蜀に殉じています。この劉ェの生きざまを語り継ぐために劉ェも漢昭烈廟に祀られているのです。一方の劉禅は漢昭烈廟に祀られていません。歴史の評価というものは厳しいものです。

漢昭烈廟の関羽像(成都武候祠博物館)

 また、漢昭烈廟には桃園の誓いで劉備と義兄弟になった関羽と張飛の一族も祀られています。上の写真は関羽です。まるで皇帝のような冠をつけていて関羽らしくありません。関羽と張飛については、ここ武候祠博物館の三義廟(関羽と張飛を祀った廟)にもあって、そちらの関羽像の方が関羽らしくて私は好きです。

漢昭烈廟の関平像、周倉像(成都武候祠博物館)

 上の写真は、関羽と同じ部屋に祀られている関平(関羽の義子)と周倉です。左が関平で、右が周倉です。二人は、関羽が樊城の戦いで孫権の武将、陸遜に破れ処刑された際に、最後まで関羽とともに戦い、処刑された武将です。

漢昭烈廟の関興像(成都武候祠博物館)

 上の写真は左が関興です。関興は関羽の子で、関羽の死後、諸葛孔明の北伐で抜群の働きをするのですが、その際に関羽が使っていた青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)を自在に操ったとされています。北伐の最中に病死した悲劇の武将でもあります。

漢昭烈廟の張飛像(成都武候祠博物館)
 
 劉備一族が祀られている部屋に向かって右側に関羽一族が祀られ、左側には張飛一族が祀られています。上の写真は漢昭烈廟の張飛像です。顔つきは私たちが抱いている張飛のイメージそのものですが、衣装が張飛らしくないですね。この張飛像もここ武候祠博物館の三義廟にもあって、そちらの張飛像の方が張飛らしくて私は好きです。

漢昭烈廟の張苞像(成都武候祠博物館)

 張飛と同じ部屋に祀られているのは張飛の子、張苞です。夷陵の戦いや北伐で大活躍し、特に夷陵の戦いでは父張飛の寝首を斬りおとした仇敵、張達を破り自ら処刑したことで知られています。

趙雲と孫乾(成都武候祠にいる蜀の武将と文官)
 
 なお、漢昭烈廟には武将廊と文官廊という廊下があり、三国志ファンなら耳にしたことのある蜀の武将や文官の像が並んでいます。上の写真は趙雲と孫乾です。


劉備の墓、恵陵

恵陵(劉備の墓、成都武候祠博物館)
 
 武候祠博物館の敷地内にある恵陵は劉備玄徳の墓です。白帝城で逝った劉備の遺体は成都に運ばれ、ここ恵陵に埋葬されました。その後、劉備の墓の近くに蜀漢の功労者を祀る祠を移転させたり建てたりしたわけですが、もともと別の場所にあった武候祠も移転され、いつの間にか武候祠と呼ばれるエリアになってしまっています。
 恵陵の墓の前には、目立たないのですが、上の写真の通り漢の昭烈皇帝の陵という文字が刻まれています。

恵陵(劉備の墓、成都武候祠博物館)
 
 正面に見える山が劉備の墓、恵陵です。決して小さな墓ではありません。何と言っても蜀漢建国者、蜀漢の初代皇帝の墓なのですから当然です。しかしながら、劉備の性格をそのまま表しているかのように、地味な御陵です。

恵陵(劉備の墓、成都武候祠博物館)
 
 恵陵は大きいのでとても全景を写真で写すことはできません。背景の山が御陵の一部です。

恵陵(劉備の墓)の周りの赤い壁の道
 
 恵陵の周りは上の写真のように赤い壁に挟まれた道で囲まれています。中国ではこの道をまさに「???道(紅壁挟道)」と呼んでいます。紅の壁と高い竹林に挟まれたこの道を歩くと、戦いに明け暮れた劉備の魂を少しでも癒してあげたいという当時の人々の心が分かるような気がします。

恵陵(劉備の墓)の周りの赤壁と竹林の道
 
 今は劉備を偲んで歩くというよりも成都という大都市の真ん中で静かな散歩道を歩きたいという市民の憩いの場に近い雰囲気です。
 ここ成都武候祠博物館に来て気づいたのは、思っていたよりも若い中国人がたくさん見学に来ているということです。諸葛亮が祀られている武候祠は観光客であふれかえっていますが、団体の観光客は入り口から入って、一列に並んでいる漢昭烈廟、武候祠と三義廟を走るように回って、恵陵をちらっと見て帰るというスタイルです。したがってここ「???道(紅壁挟道)」を含めて武候祠博物館の広い敷地内を二時間も三時間もかけて味わっている人の多くは成都市民のようなのです。中でも若い人が目立つというのが私の感想です。今の中国の若者たちの多くが、劉備、関羽、張飛と諸葛亮という愛や義を重んじた生き方を貫いた英雄たちに対する尊敬の念を、持っているのかもしれません。


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諸葛孔明の子孫が住む村「諸葛八卦村」


赤壁古戦場


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