成都武候祠の三義廟 |
成都武候祠はもともと劉備の墓(恵陵)があった場所に隣接して、諸葛孔明を神として祀る武候祠を移設し、その一帯を武候祠博物館として三国志、とりわけ蜀にかかわる歴史的な施設を集中して配置したエリアです。このページで単に「武候祠」という場合は諸葛孔明を祀る祠堂を指し、エリア一帯を指す場合には「武候祠博物館」という名称を使うことにしています。 このページで紹介する三義廟はその武候祠博物館内に建てられたもので、劉備と関羽、張飛を祀っています。武候祠博物館を大門から入ると、すぐに漢昭烈廟が現れ、その裏手に武候祠があります。三義廟は武候祠の裏手に建てられていて、大門から、漢昭烈廟、武候祠と三義廟が縦に一列に並んでいることになります。 |
三義廟の建物に掲げられた「義重桃園」は桃園の誓いで生まれた義は重いということを指しています。確かに策略、裏切りなどが日常茶飯事だった三国時代にあって、劉備と関羽、張飛が義兄弟としてまさに生死を共にした生き方は、どの時代でも中国人の心を揺さぶるようです。中国のみならず日本においても三国志ファンが多いのも、この三人の生き方に共鳴する人が多いからではないでしょうか。 この三義廟の裏には桃園を模した場所がありますが、これは全く論外です。そもそも桃園の誓いが行われた場所は楼桑村といって劉備の家があった場所です。 |
この楼桑村には「三義宮」という場所があって、ここも実は劉備の家があった場所そのものではないのですが、少なくとも桃園の誓いの雰囲気は味わえます。楼桑村については姉妹サイトで詳しく紹介していますのでそちらをご覧ください。北京市街からバスで一時間くらいで行ける場所にあります。 |
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三義廟内の像(劉備、関羽、張飛) |
三義廟内には桃園の誓いの当事者である劉備、関羽と張飛の像があります。このう中央にある劉備の像には「神聖同臻」の額が掲げられています。意味するところは「最高に神聖である」ということだと思います。よりわかりやすく言えば「これ以上に神聖なものはない」ということになります。 桃園の誓いで義兄弟の契りを交わしたこの三人の関係を、まさに言い当てた言葉だと私は思います。 |
この三義廟内の像は、楼桑村での出会いから蜀を建国するまでの三人の労に焦点を当てていますので、服装も蜀の皇帝としての服装ではなく、むしろわらじづくりの職人であった劉備が精いっぱいよそ行きの服を着ていた時の服装です。おそらく桃園の誓いの場で来ていた服をイメージして作られた像だと思われます。下から仰ぎ見ると、劉備の顔つきがちょっと偉ぶって見えてしまいます。耳は本当に大きく作られていて、思わず笑ってしまいます。 |
関羽は精悍な顔つきの関羽で、関羽らしい像です。人並み外れた武勇で知られている関羽ですが、関羽の魅力は劉備に対する義の心だろうと思います。それを最もわかりやすく示したエピソードが、曹操に敗れ一時曹操の捕虜になっていた関羽が官渡の戦いで袁紹軍の顔良を破り曹操に恩返しすると、たちまち劉備のもとに馳せ戻ったというくだりです。そんな関羽の性格も見て取れるような素晴らしい像です。 |
上の写真は張飛像です。桃園の誓いの前の張飛は肉屋をしていて、これまた人並み外れた武勇と義侠心に富む人物でしたが、喧嘩っ早いのが欠点でした。この喧嘩っ早さは歳をとっても結局は治らなかったのですが、三人の義兄弟の末弟として、常に劉備と関羽の言うことには従い、特に局地戦において圧倒的な強さを発揮しました。 張飛の像はどこにある像を見ても一様に赤黒く描かれています。まさにこの像にあるような顔つきをしていたのでしょう。桃園の誓いをした時に着ていたであろう服を身に着けたこの張飛像は、武器は持っていなくても、その喧嘩っ早さが伝わってくるような像です。 |
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三人の義兄弟のエピソード |
この三義廟にあるのは、上で紹介した三人の像と桃園の誓い以降のエピソードを記した石碑です。石碑については当然ながら中国語で書かれているので日本人にとってはわかりづらいのではありますが、漢字で書いてありますので全く分からないことはないだろうと思います。特に三国志を読まれた方にとっては、どんなエピソードが中国人に人気なのかが分かるので興味深いのではないかと思います。全部で10前後のエピソードが石碑になっていますが、ここでは三つ紹介します。 一つ目は、劉備が漢中王を名乗るシーンです。「玄徳進位漢中王」と書いてあります。劉備はかねてより群臣から王に即位することを求められていましたが、固辞している状況にありました。そうしたなか、220年に曹操が献帝に皇帝の位の禅譲を迫り皇帝に地位に就いたため、劉備は自分がその任に就くのは心苦しいとしながらも曹操を打倒するため漢中王を名乗ったシーンです。 事実関係はこの通りなのか、あるいは劉備の野心なのかは分かりませんが、有名なシーンです。 |
二つ目のシーンは関羽に関するものです。「関雲長刮骨療毒」と書いてあります。関羽が曹仁の毒矢を腕に受け、すでに毒が骨にまで回ってしまっていましたが、当時の名医、華佗が刀でその骨の部分を削り治療するシーンです。肉を裂き骨を見える状態にしてから削るという荒療治なので、身体を縛り付け目隠しをして手術したいと言う華佗に対して、関羽はそれくらいは我慢できるとして華佗の提案を拒否し、馬良と碁を打ちながら手術を受けます。 絵を見ると、確かに馬良と関羽が碁を打っていて、関羽の隣で華佗が腕を手術しています。 |
三つ目のシーンは張飛が怒って督郵を鞭打つ場面です。「張翼徳怒鞭督郵」と書いてあります。督郵とは太守の下で現代においては監察官(役人の監督や査察を行う人)のような役割を持つ役人で、所轄の県の役人の治世状況を監察・評定することを職務としています。 このシーンは、当時県令だった劉備が善政を敷いていたにもかかわらず、督郵に対して賄賂や接遇を準備していなかったため暴言を吐かれ賄賂まで要求されたことから、怒り心頭に達した張飛が督郵を木に縛りつけリンチするシーンです。 張飛の喧嘩っ早さを示すエピソードで、三国志の始まりの部分で出てくるこのエピソードは張飛の性格を読者に印象付ける有名なシーンです。 |
このように三人のエピソードがほかにもいくつも展示されていますが、日本でも有名なエピソードばかりですから親しみが持てます。原作が同じなのですから当たり前です。 さて、さっき偉ぶって見えた劉備の顔ですが、離れた場所から比較的水平に見える位置まで離れてから見てみると、そんなに偉ぶっていません。穏やかな仁徳者のような顔つきです。庶民的な顔と言ってもよいかもしれません。桃園での誓いのころはきっとこんな顔つきだったに違いありません。そんな気にさせてくれるよくできた像です。 |
諸葛孔明の子孫が住む村「諸葛八卦村」 |
赤壁古戦場 |
桃園結義の舞台、楼桑村 |