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武候祠にいる蜀の武将と文官たち|成都と武候祠

(2017年1月2日以来)

武候祠にいる蜀の武将と文官たち-成都と武候祠Chengdu

成都武候祠の趙雲、龐統、黄忠

武候祠は三国志の聖地

 成都にある武候祠博物館は三国志の聖地と言われています。三国志は魏、呉、蜀の三国による争いをテーマにしたものですが、その人気は蜀に集まっていて、その職が都を置いた成都においては、劉備や諸葛孔明、そして蜀の武将・武官たちを祀っている武候祠博物館は間違いなく三国志の聖地なのです。
 ここ武候祠博物館には劉備の墓(恵陵)諸葛孔明を祀っている祠堂である武候祠劉備、関羽、張飛の三人の義兄弟を祀った三義廟があるのですから、三国志のファン、とりわけ蜀のファンにとってはまさに聖地と言えます。では、趙雲や黄忠、ホウ統など蜀の建国・隆盛に功労のあった武将や文官はどうなっているのでしょうか。彼らは劉備を祀っている漢昭烈廟の中で武将廊、文官廊という回廊に祀られています。祀られているのはあくまでも蜀の建国・隆盛に功労のあった武将や文官です。ですから途中で蜀(劉備)を裏切った者や、魏延のように蜀をわがものにしようとした者、さらには馬謖のように大きな失態を演じた者は祀られていません。

趙雲像(成都武候祠にいる蜀の武将と文官)

 武候祠博物館には武候祠三義廟があるので、諸葛一族や関羽、張飛の一族はスポットが当たっているのですが、それに比較すると他の武将・武官たちはあまり目立ちません。上述の通り武将廊と文官廊に像が並んでいるだけです。このページでは、そうした日の当たらない武将・文官たちを紹介していきます。
 まず、趙雲です。趙雲はもともとは公孫?の武将でしたが、劉備の旗揚げ後早い時期から劉備に仕えた武将です。劉備軍が荊州で曹操軍に破れ逃げる途中、長坂の戦いでまだ赤ん坊だった劉禅を乱戦の中から獅子奮迅の働きで救い出したエピソードや、劉備が呉の孫権の妹との婚礼に呉に入ったときに供として一人参列し、周瑜の計略から劉備を守ったエピソードなどが有名です。
 武候祠博物館の趙雲像は、あたかも蜀の建国時の趙雲のようです。すっかり年を取ってしまっていて、若かりし頃の槍の名手趙雲の姿を想像することはできません。
 
ホウ統像(成都武候祠にいる蜀の武将と文官)
 
 上の写真はホウ統です。三国時代の人物鑑定家である司馬徽(水鏡先生)が「臥龍か鳳雛を手に入れれば天下を手に入れられる」と劉備に語った話は有名ですが、諸葛亮が臥龍、ホウ統が鳳雛です。劉備にはもともと徐庶という軍師がいたのですが、曹操が徐庶の母親を人質としてしまったため徐庶が劉備のもとを去ってしまいます。その際に徐庶が推薦した軍師がホウ統です。三国志でも醜男として描かれていますが、この像でも冴えない顔をしています。
 ホウ統は劉備の配下になった後、諸葛孔明とともにその知略を縦横に駆使します。その最たるものが赤壁での連環の計だとされています。これなしに孫権・劉備連合軍の火計は実らなかったに違いありません。このように大活躍したホウ統ですが、蜀の建国前、益州(成都・漢中一帯)攻めの際に、間道の落鳳坡で流れ矢に当たって落命してしまいました。その時ホウ統は普段は劉備が乗る白い馬に乗っていたとされています。

黄忠像(成都武候祠にいる蜀の武将と文官)
 
 もう一人、三国志の中で蜀の武将として有名だった人に老将の黄忠がいます。もともとは劉表の武将でしたが、劉備軍に敗れ説得の末その後劉備に帰順しました。60歳を過ぎた老将でありながら勇猛に常に戦いの先頭に立ち、弓の名手として知られています。益州攻めで大活躍するとともに、定軍山での曹操との戦いの際に夏侯淵を破った働きは有名なエピソードです。
 このように、趙雲、ホウ統、黄忠といった蜀建国の立役者も、上述の武将廊と文官廊での紹介だけです。しかも、この三人は、それぞれ他の武将や文官とセットで紹介されているにすぎません。誰がどのように紹介されているのか、この後、回廊にあった像を一つ一つ紹介していきます。



 主として武将たち

趙雲と孫乾(成都武候祠にいる蜀の武将と文官)
 
 まず、漢昭烈廟の武将廊に並ぶ功労者たちを紹介します。武将廊では主として武将が紹介されていますが、文官も紹介されています。
 上の写真は趙雲と孫乾です。趙雲については上述の通りですから、ここでは孫乾について解説します。孫乾は劉備の旗揚げ時から参加している幕僚で文官です。劉表や袁紹との交渉窓口として活躍しました。 益州に入ったのち将軍に任ぜられたため将軍廊にいますが、本来は文官廊にいるべき人です。

馬超像(成都武候祠にいる蜀の武将と文官)

 上の写真は馬超です。馬超は西涼の軍閥である馬騰の子で、後に劉備に使えた将軍です。容姿端麗で精悍な雄姿から「錦馬超」(きんばちょう)として称えられていますが、この像もまさに「錦馬超」の面目躍如です。父の馬騰は曹操暗殺計画に加担していたため、後に一族がほぼ忙殺されてしまうが、いとこの馬岱とともに生き残った馬超は、益州攻防戦のさなかに劉備に仕えることとなります。
 曹操を今一歩のところまで追いつめるなど、馬超は若い頃から勇名を馳せていたため、馬超が劉備軍に加わったことを知った劉璋が城をすぐに明け渡したエピソードは有名です。馬超は劉備の配下になったのは遅い方ですが、蜀軍の中で高い評価を得ていました。そのため、関羽のプライドが傷ついたというエピソードもあります。

王平像(成都武候祠にいる蜀の武将と文官)

 上の写真は王平です。王平は第一回の北伐(魏は蜀の北にありました。すなわち曹操を破って魏を滅ぼすための戦いです。)の際に街亭の戦いで、馬謖の愚行を諫めたことで知られています。しかしながら馬謖は王平の進言(山の上に陣を敷いてはならない)を入れなかったため、北伐は失敗し、馬謖はその責任を取らされ処刑されました。泣いて馬謖を斬るという言葉の謂れです。この街帝の戦いでの馬謖の愚行がなければ、蜀軍は魏の都、長安まで攻め込めたかもしれない状況でした。そもそも劉備が亡くなるときに「馬謖は自分の力以上のことを言う口先だけの男なので重要な役割を与えてはならない」と念を押されていた孔明でしたが、馬謖の才能を愛した諸葛孔明にとっては極めて痛い人事配置ミスだと言えます。
 一方、その場蜀を諫めた王平は、諸葛孔明に高く評価され、その後も軍の重鎮として活躍しました。

姜維像(成都武候祠にいる蜀の武将と文官)
 
 上の写真は姜維です。三国志演義の中では諸葛孔明の第一後継者として描かれています。もともとは曹操配下の武将でしたが、諸葛孔明が北伐の際に天水の城を攻めた時、諸葛亮の計略を逆手にとって危機に陥らせたり、趙雲と一騎打ちで互角の勝負を演じたりしました。孔明はその姜維の才能を高く評価し、自らの後継者とするために姜維を蜀に投降させたわけです。
 孔明の死後、孔明の後任の大将軍蒋?のもとで数回の北伐を行いましたがいずれも失敗に終わりました。その後も姜維は孔明の悲願である北伐を達成しようとしたものの、蒋?の後任の費?は「我々の力は丞相(諸葛孔明)にはるかに及ばない。その丞相でさえできなかったのだから、ましてや我々に至っては問題外である。今は内政に力を注ぎ、外征は人材の育成を待ってからにすべきだ」として賛同しませんでした。度重なる北伐により蜀の経済が疲弊してしまっていたのです。
 蜀の滅亡時には、姜維は、司馬昭の命を受けた鄧艾と鍾会の大軍が蜀に押し寄せてきていることを上表したものの、劉禅側近で宦官の黄皓がこの情報を握りつぶし援軍の派遣が遅れたため、263年に劉禅は城を明け渡し蜀は滅びることになります。孔明の死から29年後のことでした。

黄忠と廖化(成都武候祠にいる蜀の武将と文官)
 
 上の写真は黄忠(右)と廖化です。黄忠については先に紹介しているので、ここでは廖化について紹介します。
 廖化が三国志に登場するのは荊州にいた関羽の配下になったときです。もともとは黄巾賊の残党の一人だったようです。麦城で関羽が捕らえられた時も一緒に孫権軍に投降しましたが、劉備のもとに逃げ戻っています。蜀建国後は、孔明のもとで北伐に参加し数々の武功を挙げ、将軍の地位に上っています。70歳過ぎまで生きていたとされ、蜀滅亡時にも一軍を率いて魏の侵攻を食い止めています。一方で、冷静な分析力・判断力も持ち合わせていたようで、姜維に対して「知略も戦力も劣る蜀が北伐を行うことは自滅行為である」と諭したというエピソードは、武功だけではない廖化の価値を示すものです。

  


蜀の文官たち

ホウ統と簡雍(成都武候祠にいる蜀の武将と文官)

 上の写真はホウ統と簡雍です。ホウ統については上で紹介済みですので、ここでは簡雍について解説します。
 簡雍は劉備の初期からの幕僚の一人で、仕事は有能でユーモアに富むものの、傍若無人で無礼な行いも少なくなかったとされています。内政や外交で手腕を発揮しました。特筆すべきは、益州攻城戦で劉璋への使者となり、城の明け渡しを実現したことでしょう。劉璋からその性格を愛され、劉備の使者となり輿に乗って成都の城に乗り込んだ簡雍は、城から劉備軍の陣屋に戻るときには、その輿に劉璋を同乗させてきたとされています。
 劉備の初期の文官としては孫乾や麋竺と並んで簡雍の名前が出てきますが、この三人の中では最も地味な働きしかしていない印象が私にはあります。それでも文官廊に像が並べられたのは成都城の明け渡しで成果が大きかったからに違いありません。

呂凱像(成都武候祠にいる蜀の武将と文官)

 上の写真は呂凱です。呂凱の一族は秦の時代から巴蜀(今の四川省)に移住し、前漢のもとで異民族の教化政策の任にあったとされています。蜀漢建国後、益州の豪族の雍?らが蜀への反抗を企てていましたが、これらを未然に防止するとともに、諸葛孔明の南征時には地元の豪族たちに蜀に服属するように勧めました。呂凱は地元の益州でその威光と温情が深く知られていましたので、多くの豪族たちが呂凱の勧めに従って蜀に服属しました。そうした意味で孔明の南征成功の大立役者がこの呂凱です。その後呂凱は雲南郡の太守になりましたが、反乱勢力に殺害されてしまいました。

費?像(成都武候祠にいる蜀の武将と文官)

 上の写真は費?です。費?は蒋?の後任として蜀の大将軍の任にあった人です。もともと益州の人間で、劉備が益州を支配したときから劉備の配下になっています。諸葛孔明は費?の能力や性格を高く評価し、呉への使節を務めるなど、要職につけていました。
 費?が蜀でその力を最大に発揮するのは、やはり243年に大将軍になってからです。度重なる北伐で経済力や人材を失い国力が低下していることを最大の課題として認識し、北伐をしばらく実施しなかったことは先の姜維のところで説明したとおりです。
 費?は253年に魏の降将に宴席で刺殺されてしまいます。能力の高い費?が抜けた穴は蜀にとって極めて大きく、次第に宦官の黄皓が劉禅をコントロールするようになり、蜀は滅亡への道をひた走ることになります。蜀の滅亡は263年、費?が殺害されたわずか10年後でした。

蒋?像(成都武候祠にいる蜀の武将と文官)

 上の写真は蒋?です。劉備が荊州にいたころから劉備の配下に加わり、諸葛孔明を支える立場にいました。諸葛孔明はは密かに劉禅に対し「私が死ぬことがあれば、後事を蒋?に託すべきです」と上書していたとされています。実際に孔明死後、蒋?は孔明の後継者として、尚書令、大将軍という役職にありました。これらの役職は孔明の丞相(今でいう首相)という地位には就かなかったものの、蜀のナンバー2の地位にあったわけです。皇帝の劉禅は無能でしたので、実質的に蜀の政治、軍事、恩賞や賞罰についてはすべて蒋?が司ったことになります。
 244年に大将軍の地位を後任の費?に委ね、蒋?は246年に病死しました。

董允像(成都武候祠にいる蜀の武将と文官)
 
 上の写真は董允です。董允は荊州の人なので、蒋?と同様に劉備が荊州にいるときに配下に加わったものと考えられます。劉備が皇帝になり劉禅が皇太子になったときに皇太子の側近となったあたりから、董允の名前が歴史に出てきます。諸葛孔明が北伐の際に劉禅に記した水師表の中で、自分に万一のことがあれば費?、郭攸之と董允に宮中のことを相談なされたいと書き、以来劉禅のお目付け役として、劉禅に諫言する立場で劉禅の暴走を食い止めていました。費?が大将軍の位にあったときにそれを補佐する立場まで昇進しています。
 董允は246年に病死しましたが、その後劉禅に諫言する高官がいなくなったため、宦官の黄皓が重用され、蜀は転落の道を歩むようになりました。諸葛孔明、蒋?、費?と並んで「蜀の四英」と称されました。

馬良と程畿(成都武候祠にいる蜀の武将と文官)
 
 上の写真は馬良(左)と程畿(右)です。いずれも関羽と張飛を失った劉備が報復のため挑んだ夷陵の戦いで陸遜の火計に大敗を喫した際に戦死しています。
 馬良は荊州襄陽の人です。五人兄弟で、みな優秀だと評判でしたが、馬良が最も優秀だとされ、馬良の眉に白い毛が混じっていたため「白眉が最も良い」と言われ、これが「白眉」という語源になっています。像を見る限り白眉が見えないのが寂しいです。なお。馬謖は馬良の弟になります。
 馬良は文官として特に荊州の行政で手腕を発揮し、諸葛孔明からも高い評価を受けていました。劉備が夷陵の戦いで荊州を通過するため、荊州で顔が利く馬良を従軍させたのもうなづけます。残念ながら、馬良は夷陵の戦いで命を失うことになりました。
 一方の程畿については私は詳しいことを知りませんが、益州出身の武将でもともとは劉璋の配下にいて、蜀建国後に劉備の配下になったものと推測されます。夷陵の戦いでは武将の一人として奮戦しました。その際に、自分はこれまで敵前で退却したことはない、とあくまでも前線で戦い、劉備の白帝城への逃避行の時間を作ったとされています。

 以上が、武候祠にいる武将と文官たちの紹介です。


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諸葛孔明の子孫が住む村「諸葛八卦村」


赤壁古戦場


桃園結義の舞台、楼桑村





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