晩清の名園、揚州の何園|アジア写真帳(揚州)

(2015年4月5日以来)

晩清の名園、揚州の何園YANGZHOU

晩清第一園、何園の背景


  揚州の庭園といえば个園(個園)の右に出るものはありませんが、ここ何園も清代末期に作られた名園として知られています。まさに「晩清第一園」として高い評価を得ている庭園です。
 何園ができたのは1858年です。孫文らの辛亥革命により中華民国が建国されたのが1912年ですから晩清というには早すぎると思われる方もいるかもしれませんが、歴史をひも解くと、アヘン戦争が勃発したのが1840年、不平等条約の南京条約がイギリスとの間で締結されたのが1842年、そして、第二次アヘン戦争が1857年に勃発し1859年には英仏連合軍が北京に迫り円明園での略奪も行われ、翌1860年に北京条約でさらに不平等な国際関係を強いられた時期にあたります。国内に目を移せば、太平天国の建国が1853年(1860年に南京陥落により消滅)ですから、清がまさに崩壊に向かって坂を転げ落ちているような、そんな時代にこの何園は造られたわけで、清滅亡の半世紀前ではありますが「晩清」という表現はなるほどという観があります。


 何園は揚州に数多く存在するいわゆる私家園林で、その中は庭園部分と居宅部分とに分けられています。庭園部分は「寄嘯山荘」と名づけられています。
 この「寄嘯山荘」の「寄嘯」は、陶淵明の「帰去来辞」の句からとったものだとされています。陶淵明の「帰去来辞」は、陶淵明が41歳ですべての官職を退けて田舎に隠棲する決意を語った詩です。陶淵明の人生の転機を語る詩で、全体はもっと長いのですが「寄嘯」に関する部分を取り出して紹介します。
   倚南窗以傲   南窓によりて以て詩を吟じ(寄傲)
   審容膝之易安   狭い家の心安さを知る
    ………
   懷良辰以孤往   天気のいい日は一人で出かけ、
   或植杖而耘シ   ある時は、杖を立てておいて、畑いじりをする。
   登東皋以舒   東の丘(皋)に登り、おもむろに口笛を吹き(舒嘯)
   臨淸流而賦詩   清流に臨んで詩を詠む
 41歳で官職を退き郷里の田舎に隠棲する際に、むしろ、この田園生活を桃源郷のようにしたい、伸び伸びとした人間らしい生活にしたいという決意が感じられる部分です。

 

 何園は、1858年に揚州の監察官だった何芷舠という高級官僚が造った庭園付きの自宅でしたが、残念ながら彼はこの何園の完成前になくなってしまい、庭園部分に「寄嘯山荘」という名はつけたものの、ここを桃源郷として楽しむことはありませんでした。
 何園は「晩清第一園」といわれ、最後の古典庭園として位置づけられていますが、私の印象としては、庭主である何芷舠のフランス滞在経験(かつてはパリの清国公使館員でした)から、ヨーロッパへの憧れも感じられる中国庭園という印象があります。この何園を造成しているときは、まさに第二次アヘン戦争の最中で、英仏連合軍が最終的に北京まで迫った時代なのですが、そういう意味では微妙な時代に中洋折衷の庭園が造られたものです。


 

何園、寄嘯山荘の四方庁


 何園は、庭園部分と邸宅部分が壁などにより明確に区分されています。庭園である寄嘯山荘への主たる入口は、邸宅スペースから入る入口と、外の一般道からバイパス的に入る入口との二つがあります。庭園と居宅が同じ敷地内にあるというのも、清代の庭園の特徴の一つといえます。


 寄嘯山荘に入ると最初に見えるのがこの太湖石を中心としたロータリーと四方庁です。庭園の中にロータリーのようなものがあること自体、中国古典庭園としてはあまり例のないものです。
 そして、ロータリーの向こうには四方庁が見えます。この四方庁は船庁とも名づけられていますが、これは「始皇帝と徐福の不老不死の薬」の話、すなわち、神仙蓬莱思想から来ています。すなわち、秦の始皇帝の政治が厳格すぎたため、山東の学者、徐福が始皇帝に取り入り仙人探しを誘った話です。徐福が言うには「東海の渤海の中には蓬莱、方丈、瀛州(えいしゅう)という三神山がある。そこ には、仙人が住んでおり、不老不死の薬もあるとのことなので、是非とも私どもを三神山へ遣わして、仙人や仙薬を求めさせていただきたい。」始皇帝は徐福たちの希望を聞き入れ金と人を与え探しに行かせたのですが、二度と戻ってこなかったという話です。
 中国古典庭園にある画舫(がぼう=屋形船)もこうした神仙思想に起因していて、蘇州の拙政園の香洲留園の涵碧山房などはその代表的なものです。


 ロータリーの周りの鋪地(敷石)です。花壇の縁に沿って切られている鋪地というのも、明代以前の中国古典庭園では見かけないものです。こんなところも西欧的な影響なのかもしれません。


 こちらの鋪地は鳥の絵です。




 左が四方庁、正面奥の山の上に建つのが円亭です。右側には築山が続いています。


 先ほど紹介した四方庁(船庁)の裏には、築山があって山上に亭が見えます。この築山が神仙島をイメージしたものです。中国庭園では、小蓬莱と呼ばれる島や山をよく見ますが、この狭いところにある一角がその小蓬莱に相当する部分です。


 円亭と呼ばれる山上の亭です。何園(寄嘯山荘)では、名前が付いていない建物が多いのですが、これは、寄嘯山荘完成前に庭主の何芷舠が亡くなってしまい、寄嘯山荘という庭全体の名前などいくつかしか付けられなかったからだそうです。したがって、庭主の思いが込められた名前がつけられずに、「四方庁」とか「円亭」とか、建物の形状を見て一般的な名前しかないものが多いようです。


 四方庁の周りの鋪地(敷石)です。このデザインは海の波を表したもので、四方庁が船の役割を果たして、海の向こうにある神仙島への案内をするという舞台づくりのための鋪地です。
 大きな池を作るスペースがないから鋪地で海を表したのか、中国古典庭園の伝統である神仙思想という伝統をどうしてもこの寄嘯山荘に入れたかったのか、或いはその両方なのか、この鋪地からはそんな庭主の思いが感じられます。


 四方庁を過ぎると、いよいよ寄嘯山荘の最大の見所、二階建ての回廊に囲まれた水心亭の景に出ます。ここから先は、何園の水心亭と回廊を参照してください。