鑑真で有名な揚州・大明寺|アジア写真帳(揚州)

(2015年4月5日以来)

鑑真で有名な揚州・大明寺YANGZHOU


 鑑真を生んだ揚州・大明寺


 大明寺は揚州市にある由緒ある寺で、日本へ仏法や戒律を伝えた高僧鑑真がこの寺の住職だったことで知られている寺院です。大明寺は痩西湖に続く蜀岡に建っていて、揚州市の市街地や痩西湖からタクシーなら5分ないし10分程度で行ける場所にあります。大明寺の山門の前には、上の写真のように大きな牌楼があり、奥には、九層の栖霊塔が見えます。高僧鑑真を生んだ寺院としての風格を感じさせる入口です。


 大明寺へは、大明寺と書かれた真ん中の門の中を入っていきます。凛とした雰囲気が漂う門です。

 

 大雄宝殿は大明寺の本堂に相当する建物です。「大雄」とは仏陀のことです。すなわち、大雄宝殿には仏像が安置されているはずです。清代に建てられた大雄宝殿は前後を回廊に囲まれ、正面間口三間、山荘の屋根を持つ立派な建物です。前の広場では観光客が炊く線香の煙が絶えません。


 大雄宝殿内の仏像です。この仏像が釈迦牟尼仏坐像、即ち仏陀であり、また中国語で 「大雄」とも呼ばれる像です。穏やかな表情をした仏像で、思わず心を惹きつけられてしまいます。


 大雄宝殿から栖霊塔に向かいます。
 栖霊塔は隋の時代に建てられた九層の塔が始まりで、その頃は仏舎利が供養されていたそうです。隋や唐の時代には、京杭運河の活用により揚州が栄え、全国でも有数の大都市となったことから、李白や白居易をはじめとした唐時代の有名な詩人たちが揚州を訪ねていますが、彼らの漢詩の中にも栖霊塔が出てきます。鑑真がこの寺の住職をしていたのもこの時代です。
 しかしながら、その後、栖霊塔は唐代に火事で焼失し、その後宋の時代に再建された栖霊塔も明代の末期に戦乱で消失してしまうという歴史を辿っています。このあたりが、交通の要衝で戦火に巻き込まれやすい揚州の地理的性格を現しています。
 その後何百年にも渡り再建されなかった栖霊塔が再建されたのは1996年です。現存する九層の栖霊塔は高さ70mあり、各階には日本から送られた国宝も含め、沢山の仏像が祭られています。


 栖霊塔の横には、唐代の建築様式が顕著に見られる鐘楼と鼓楼が2000年に建てられていますが、全体の建築構造は唐招提寺の鼓楼の構造が参考とされたそうです。



 大明寺にある鑑真紀念堂


 鑑真記念堂は鑑真の逝去 1200 周年を記念するために建てられたもので、建築全体のスタイルは唐の時代の建築様式を参考にして、1973 年に完成されたものです。鑑真は日本滞在中の10年間に、戒律制度を整備確立させ仏教の普及に多く貢献する一方で、書道・建築・彫刻・薬学など幅広い知識をもたらし、日本文化にも大きな影響を及ぼしています。
 そうした意味で、今の日本人にとっても鑑真は大変な恩人であり、揚州に来たならば、一人の日本人として、ここはしっかり見ておきたいところです。

 

 鑑真記念堂に安置されている鑑真の坐像です。この鑑真の坐像は日本から送られたもので、ガラスケースの中に大切に安置されています。そもそも「大明寺」という名前は、清の乾隆帝が「大明」(清の前の「明」に大の字が付いているため)という文字を忌み避けるため、「法静寺」という名に変わっていたのですが、 1980 年、鑑真の坐像が日本から帰省してきたことをきっかけに、「大明寺」と元の通りにしたという逸話もあります
 ここで、鑑真の生涯について触れてみます。中学生や高校生の頃はよく知っていたのですが、こんな生涯でした。
 鑑真は唐時代の垂拱4年(688年)に現在の揚州市に生まれ、702年に出家、律宗・天台宗を学び始めました。その後、大明寺で住職となり、住民に尊敬される存在だったそうです。唐時代の天宝元年(742年)、大明寺住職であった鑑真は、日本へ仏法及び戒律を伝えてもらいたいとの遣唐僧の栄叡と普照からの熱意ある要請に応じて渡海を決意し、翌年から日本への渡海を試みます。その後、鑑真は様々な苦難に遭遇し、11年間、5度の渡海に失敗します。悲願が達成されたのは6回目の渡海で、天宝12年(753年)に日本に到着、最初の渡海の試みから12年目のことでした。鑑真が失明したのは5回目の渡航後であり、それにもかかわらず志を曲げず6回目の渡航に挑み、ようやく渡航に成功したという経緯にあります。
 その後鑑真は戒律制度を整備確立させるとともに、唐招提寺を建立し律宗の伝授に努めるなど、日本で入寂(亡くなった)されるまでの10年間、当時の日本に大きな影響を及ぼしたのでした。


 鑑真記念堂にある遣唐使船の模型です。当時の船は風任せですので、日中間の渡海の成功の確率は大変低いものでした。


 唐招提寺から送られた鑑真記念堂前の石造りの提灯の土台です。下の写真に提灯の全体が映っています。この提灯を大明寺のホームページは次のように紹介しています。
 中国の温家宝首相は 2007 年 4 月 の日本の国会で「友誼と協力のために」という題でスピーチを発表したなかで、「揚州大明寺鑑真記念堂には石造りの提灯がある。それは日本唐招提寺森本孝順長老から送られ、長老自ら火をつけたものである。日本唐招提寺にあるもう一つの提灯とは対になったのである。その一対の提灯の火は今でも燃えており、遥かながらも呼応していて、消えたことはない。それは日中両国人民の世代の友好に光明たる前途が迎えられることを象徴しているではないか。」と言っていたそうです。
 

 鑑真の功績に思いを致し、世代を超えた日中友好の証である提灯を見ていたとき、大勢の僧侶が鑑真記念堂に入ってきました。


 これだけ多くの僧侶、しかもいかにも仏の道を究めたような名僧らしき方々が入ってきますと大変な迫力があります。


 法要なのでしょうか。延々と中国語のお経が流れます。50人くらいの僧が声を合わせているので大変な迫力です。


 中央に鎮座する鑑真の坐像をはさみ、素晴らしいお経の響きに、しばらく我を忘れ聞き入ってしまいました。勿論、中国語のお経は全く理解できない私ですが、その荘厳な響きは今も耳に焼き付いています。



 

 大明寺に隣接している西園


 大明寺には、西園という庭園が隣接しています。すこし、西園に足を伸ばしてみましょう。
 ここに「第五泉」という字が見えたので、写真のおじさんに謂れを聞いてみると、唐の時代の茶の名人が言ったことに、「お茶を淹れるのに適しているのは、一番目に揚子江の水、二番目に無錫・恵山寺の水、三番目に蘇州・虎丘の水、四番目に丹陽県・観音寺の水、五番目に揚州・大明寺の水、等々である」という話があったそうです。揚州では有名な話なんだそうです。
 さすがに唐の時代も、揚州・大明寺は有名な寺だったようです。


 西園はいわゆる江南の中国庭園らしく、池や巨石が配置された美しい庭園です。上の写真は聴石山房という建物で、築山と付近の谷間を抜ける風の音が奇妙なため、思わず聞き耳を立てるため、この名前が付けられたようです。


 聴石山房の近くにある黄石の築山です。大変大きな築山で、なかなかこれだけ立派な築山は江南の庭園でも見たことがありません。残念ながら、西園はあまり整備されておらず、観光客が殆ど足を伸ばさないので、せっかくの見事な築山なのですが、あまり広く知られていないようです。
 大明寺に来たなら、西園まで少し足を伸ばしても良いと思います。


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