劉備と孫尚香がお見合いした鎮江の甘露寺|アジア写真帳(揚州・鎮江)

(2015年4月5日以来)

劉備と孫尚香がお見合いした鎮江の甘露寺YANGZHOU


 劉備と孫尚香が見合いした甘露寺は、鎮江の北固山公園にあります。標高50m余りの北固山の上に建っています。ここには、劉備と孫尚香との婚礼(劉備招親)に関わる様々な見所があります。順に紹介していきます。



天下第一江山




 入口にある「天下第一江山」の書です。南北朝時代に梁の国を建国した高祖(蕭衍)の書だと言われています。蕭衍は武帝という諡号がついているので、武帝の書とも言われています。蕭衍はもともと江蘇省の出身者ですが、ある時、この北固山甘露寺を訪ねた際に、その眺めを「天下第一江山(世界一の山河)」と名づけたそうです。
 因みに、蕭衍の武帝としての在任期間は502年から549年です。

劉備招親(劉備と孫尚香の結婚式)



 甘露寺の多景楼に続く廊下です。
 今度は、三国時代の話です。
 赤壁の戦いで大勝利をおさめた孫権と劉備でしたが、その関係は必ずしも良くありませんでした。特に、赤壁の戦い後直ちに荊州を領有した劉備に、孫権はその返還を求めましたが、劉備に拒否されます。孫権は、周瑜の策による「美人之計」、すなわち孫権の妹である尚香との結婚を餌に、劉備を呉におびき寄せました。
 劉備と尚香との見合いの場所が、ここ甘露寺の多景楼で、周愉は写真の廊下に軍を伏せて、劉備を一思いに殺害しようと計画したわけです。
 尚香との見合いの話が孫権から来た時点で、諸葛孔明は孫権の陰謀を見破り、喬玄(周瑜の妻である小喬の父)を通じて孫権の母・呉氏に真相を訴えます。その結果、孫権は母呉氏に叱責されるとともに、この計略は失敗に帰したという話です。
 この話は三国志では「劉備招親」という部分ですが、「劉備招親」という語は、「嘘から出たまこと」という意味にもなります。分かりますよね。孫権には、もともと妹を劉備に嫁がせる気持ちなど全くなかったのに、二人は結婚してしまったのですから。
 その舞台が、上の写真の廊下です。確かに、兵を隠せる場所かもしれません。


 甘露寺には、「劉備招親」の話に関する蝋人形がいくつか飾られていると聞いています。多景楼に続く廊下を実際に見て「劉備招親」の話を思い出したら、折角ですから、それを見に行きましょう。
 この門を入って右側にあると聞いています。

 

 途中にあった庭園です。黄石で池の周りを囲んでいるなど、やはり蘇州の庭園技術の影響を感じます。


 歴史を感じさせる門ですね。「劉備招親」の話に関する蝋人形は、この門を入って正面に見える建物の中にあります。


 ようやく人形の部屋に来ました。等身大の人形なので、迫力あります。
 まず、これは、尚香が入室してくるところですが、左側に孫権と張昭が立っています。右側手前で武将姿で立っているのが趙雲です。尚香に最も近いところで出迎えているのが劉備です。


 荊州の領有問題について話し合いをする諸葛亮と魯粛です。
 赤壁の戦いの後、荊州を領有した劉備は、呉から荊州を返せと言われると、蜀を取ったら返すからそれまで待って欲しいと言い、蜀を取った後は関羽がウンと言わないからなどといって、返そうとしません。劉備はこの荊州の問題で泣いて見せたり、怒って見せたり、困って見せたり、十分に面の皮の厚いところを見せてくれます。劉備にそうした知恵をつけたのが諸葛亮で、人が良くいいようにあしらわれているように描かれているのが魯粛です。
 魯粛には、呉の力だけでは曹操を破るためには不足しているとの認識があって、同盟すべきその他勢力の一番候補である劉備軍との連携は、呉を発展させる大前提でした。赤壁の戦いやそれ以降の三国の歴史を考えれば、時間はかかったかもしれませんが、曹操との1対1での衝突を避けたことが、呉という国を守れた大きな原因なのですから、魯粛の柔軟性に富んだ沈着冷静な戦略は決して誤りではなかったと思います。
 因みに中国で、「劉備借荊州(劉備が荊州を借りる)」という語は、借りるだけで返さないという意味になります。
 

 寝室に入る劉備と孫尚香です。寝室の周りに薙刀等を持った女官が林立する姿を見て、劉備が驚き恐れたというエピソードがある情景です。


 婚礼後、劉備が長江を荊州まで逃げる様子です。この時、孫権は万全の策で劉備を捕えようとしましたが、尚香が意に反して劉備の逃亡を助け、近寄る呉の兵士たちをたじろがせたというエピソードがあります。白馬にまたがり薙刀を振り回した活発な性格を良くあらわしています。
 映画「レッドクリフ」でも孫尚香は活躍していましたね。



多景楼



 劉備と孫尚香の見合いや婚礼が行われた多景楼です。数年前までは二階に上がれたと聞いていますが、少なくとも私が行った際は、建物の保護のため二階には立ち入り禁止になっていました。
 三国志演義では、見合いのため多景楼を訪れた劉備が、その二階からの絶景に感動し、「天下第一の江山だ」と言ったとされていますが、「天下第一江山」は、このページの上で記載したとおり、梁の武帝の言葉ですので、西暦500年以降に三国志の話を面白くするための脚色に過ぎません。


 多景楼の入口にかかる「天下江山第一楼」という書は、宋の時代の書家、米芾の作です。


 多景楼の二階に上がれないので、劉備が見た絶景を見ることができません。二階に上がれれば視界が広がるのですが、多景楼周辺は木が生い茂っていて、眺望がききません。
 話によれば、「長江が海のように広がり、北固山のすぐ下にも長江が迫ってきている。北固山の絶壁の下が長江である。川上を望めば、金山が見え、金山の仏塔が林立する寺と山が一体となった風景も見事である。東を望めば焦山が見える。これらの山が海に浮いているように見えて、まさに絶景だ。」などという表現で、多景楼からの眺めが紹介されています。


 多景楼に飾られている「劉備招親」の絵です。右側に劉備と趙雲、左側が孫権です。孫権の後ろにいるのが、孫権の母の呉氏と喬玄(周瑜の妻である小喬の父)なのでしょうか。
 そして、その後ろにいるのが孫尚香でしょうか。孫尚香にしては、細身でおしとやかに描かれていますが。


 「多景楼」の横にある「狠石」です。
 劉備と孫権がこの「狠石」に座り、迫り来る曹操の大軍への対策を練ったと言われていますが
大人が座るには高さで低いし、眉唾物です。手前の「狠石」は残っていますが、向こう側は壊れています。
 地元の人に聞いてみたら、「狠石」には座る人が多いのでよく壊れるそうで、そういう意味ではよく作り変えてますとのことです。

 

祭江亭



 劉備が白帝城で亡くなった後、孫尚香が劉備を弔うために建てたとされている祭江亭です。
 北固山の長江寄りの角に建てられていて、二人が出会った多景楼のすぐ脇にあります。劉備が感嘆した鎮江・北固山からの絶景を見れるところに建てたところに、孫尚香の劉備に対する愛情が感じられます。その後、孫尚香は、劉備を追って、この祭江亭の脇から長江に身を投げてしまいました。


 三国志の歴史舞台、甘露寺には見所が沢山ありますね。
 最後に、甘露寺の境内です。
 地元の人の安らぎの場となっていて、将棋やトランプなどに興じている人々が沢山いました。

 

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