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木涜古鎮(西施ゆかりの水郷古鎮)|蘇州古典園林の魅力

(2010年5月1日以来)

木涜古鎮(西施ゆかりの水郷古鎮)SUZHOU

木涜古鎮


 木涜は蘇州から西南に10キロメートル離れた所にある古鎮で、蘇州から公共バスで30分ほど乗れば行けるお手軽な古鎮です。今は蘇州の地下鉄も通っている蘇州郊外の街です。木涜古鎮は霊岩山の麓で太湖に臨み、胥江と香渓という二つの運河が木涜古鎮の中で合流しています。胥江は蘇州と太湖、長江(揚子江)を結ぶ運河で、木涜が栄えたのも、この胥江沿いにあったという地理的な利点が大きかったものと思われます。


 木涜が歴史に登場するのは呉越戦争の時代ですから、かなりの昔です。呉越戦争は、中国の「史記」で有名ですが、復讐の歴史としてみると流れが良く理解できます。実は、木涜の街は、勝敗の分かれ目となった「臥薪嘗胆」や「会稽の恥」といった有名な熟語が生まれた呉越戦争のなかでのターニングポイントとして登場する街なのです。呉越戦争のポイントを整理しておきましょう。
 まず、登場人物として、呉越の王です。
越王  勾践(こうせん) 紀元前496年即位~紀元前465年退位
(但し、紀元前494年から491年は呉の支配下)
呉王

 闔廬(こうりょ)

呉の第5代王 紀元前496年に呉越戦争で戦死
 夫差(ふさ) 呉の第6代王 紀元前473年に自決

 次に、呉越戦争のポイントを時系列で見てみます。 
紀元前
496年
呉王闔廬(こうりょ)が、越との戦いで受けた傷がもとで死亡。
その際の「父を殺したのは越王勾践であることを忘れず、必ず越を滅ぼし、父の恨みをはらせ」との遺言を受け、夫差は3年以内に越を討つことを決意。
以降、夫差は薪の上で寝て(臥薪)、父の恨みを忘れないようにした。
494年 夫差は越王勾践を戦争で破り、会稽(かいけい)で降伏させる。
この際、勾践は范蠡(はんれい)の進言に従って、自らは夫差の臣下になるという屈辱的な条件によって、呉王夫差に降伏した。一方、呉王夫差は伍子胥(ごしじん)の猛烈な反対を押し切ってこれを受け入れている。
勾践は夫差の召し使いとして仕えることになったが、暫くして越に戻ることになった。 勾践は呉の属国となった悔しさから、部屋に苦い肝を吊るして、毎日のようにそれを舐めて(嘗胆)、呉に対する復讐を誓った。
484年 伍子胥が、呉王夫差の命令により自害。その際、伍子胥は「(夫差の)棺桶を作るため、自分の墓の上に梓の木を植えること。自分の目をくりぬいて東南(越の方向)の城門の上に置き、越が呉を滅ぼすのを見られるようにすること。」と言い、自ら首をはねた。
この背景には、范蠡による離間の計(りかんのけい)があったともされている。
482年

呉が晋との間の戦争に没頭している時、呉本国が越に攻められ、夫差の息子が越に処刑されるなどの攻撃を受けたが、越も呉を一気に滅ぼすほどの力はなく、いったんは和睦した。

473年 その後も夫差は無理に北へ出兵して国力を消耗した。四年後、越は呉に決戦を挑み、遂に夫差を姑蘇山に追い詰め、夫差は自殺した。この際、夫差は「伍子胥にあわす顔が無い。」と言って顔に布をかけて自殺した。こうして呉は滅亡した。

 呉に対する復讐に向けて、越王勾践と軍師の范蠡(はんれい)は様々な手を使うのですが、その一つが美女を献上して呉王夫差を籠絡するという作戦です。策謀として献上した美女たちの中の一人が西施なのです。




 上の図は、紹興にある「越王殿」に掲げられている絵です。中央で踊るのが西施で、右側で酒を飲みながら舞を見ているのが呉王夫差です。越王殿では、呉越戦争の流れを絵で見せてくれています。興味のある方は一度行かれることをおすすめします。
 さて、その西施と木涜との関係なのですが、呉王夫差は絶世の美女西施のために、ここ木涜に館娃宮という大御殿を建てています。呉王夫差の寵愛を受けた西施が呉王夫差におねだりし、戦費や兵士らへの給与を削らせるばかりでなく、呉の国の財政を破綻に導いたのです。これはまさに范蠡の作戦なのですが、西施が「傾国の美女」といわれるのにはこうした経緯があるのです。


 木涜にある西施橋です。ここで、観光客、特に女性は写真を撮りたがります。写真屋さんでは衣服も貸してくれます。
 ところで、「顰に倣う(ひそみにならう)」という言葉をご存知でしょうか。西施には胸が痛む持病があったといわれています。ある日、その発作が起きたときに、彼女が胸元を押さえ、顰(眉間)にしわを寄せた姿にはなんともなまめかしく、か弱い女性の美しさがにじみ出ていて、里の人たちは皆、目が釘付けになったそうです。ところが、西施が美女だからこそこうしたポーズは絵になるのですが、それほど美女ではない方がこのポーズを取ってもさらに醜くなるだけで、何の役にも立たないわけです。
 このことが顰に倣う(ひそみにならう)、むやみに人のまねをするのは愚かなことという故事になったものです。したがって、西施橋で写真を撮られる女性の方は、西施のように胸元を押さえ、眉間にしわを寄せることのないように、普通に写真を撮るようにおすすめします。



西施の古鎮


 西施橋です。橋自体はこれといって特徴があるものではありません。ただ、西施橋周辺には水郷古鎮らしい雰囲気が色濃く残っていますので、西施橋は古鎮の風情を楽しむには絶好の場所です。
 なお、木涜という地名は、「積木塞涜」という字から取られています。「涜」は水路という意味です。すなわち、館娃宮という大御殿を建築するために、大量の木材が胥江で運ばれ、その大量の木材が水路(胥江)を塞いだことから、木涜という地名が生まれたのです。
 このように、木涜と西施には切っても切れない関係があり、木涜に来たら西施橋に来ない人はいないのです。


 西施橋の脇にある土産物屋さんです。西施綉庄といいます。綉とは刺繍の意味です。蘇州の刺繍は有名ですので、蘇州の刺繍を中心にしたみやげ物屋ということになります。西施グッズで面白いのがあれば買いたいと思ったのですが、それほどミーハーな店ではなかったようで、普通の土産品が売られていました。



木涜の見所


 木涜に来たら、西施橋以外に何を見るのかということですが、一つは、廊橋(屋根付きの橋)を中心とした古い商店街の風情、もう一つは厳家花園、古松園や榜眼府邸といった清の時代に造られた邸宅兼庭園です。
 上の写真は商店街ですが、こんなところをぶらぶらするのも楽しいものです。


 そして、この写真は廊橋(屋根付きの橋)に残る古い商店街です。雨の多い江南地域ですから、胥江に面し、多くの旅人が通過したかつての木涜の街が、その旅人たちを集客するために屋根付きの商店街を作った名残です。


 今は寂れた感じの商店街で人通りも少ないのですが、橋から見る胥江の流れも古鎮らしさが残っていますので、当時の木涜の街の雰囲気を味わうだけでも良いと思います。


 廊橋(屋根付きの橋)に残る古い商店街で見かけたマネキンです。西施の街らしく、シルクの店ですとか、女性のドレスの店などが比較的多いようです。古典的なチャイナドレスと並んで子供服が売られているあたりが、木涜らしさを感じさせます。


 私もざっとウインドウショッピングをしただけですが、売られている商品は、廊橋(屋根付きの橋)に残る古い商店街よりも、廊橋から続く商店街の方が実用的なようです。こちらの商店街でもシルクものが数多く売られていますから、ひょっとすると掘り出し物があるかもしれません。


 こういった小吃店も沢山あります。こちらは臭豆腐の店です。でも、この日売っていたのは臭豆腐ではありませんでした。


 運河を走る舟に乗るのも良いと思います。また、それを眺めるのも良いものです。水郷古鎮としての魅力は、同里周荘に比べると落ちるのですが、まあ、蘇州から近いお手軽な水郷古鎮ですから、お許しください。
 実は、木涜古鎮は土日ともなると沢山の中国人観光客で賑わいます。彼らのお目当ては、勿論、西施ゆかりの地ということもありますが、それと並んで、厳家花園、古松園や榜眼府邸といった清の時代に造られた邸宅兼庭園です。これらの庭園については、このホームページでもおいおい紹介していきますが、ここでは簡単に、3つの庭園を紹介しておきましょう。



木涜の庭園


 木涜で最も有名な庭園が厳家花園です。 厳家花園は台湾の厳家淦の旧居で、敷地面積1万平米強の立派な庭園です。清の乾隆帝がしばしば南巡した折に、この庭園にも立ち寄ったとされています。楠木という高価な木材で造られた尚賢堂は明時代の建築で、広々として明るい建物です。敷地内には、いくつもの小庭園が配置がされています。また、二階建ての建物や築山の上の亭などから、立体的に庭園を楽しむようになっているあたりが、清代に整備された庭園らしいところです。


 上の写真も厳家花園です。庭の奥に二階建ての建物があって、この階段を上りながら庭を眺めると、高低による変化が感じられます。
 写真の通り、庭園内は大変込み合います。たまたまなのかもしれませんが、私が行った日は中国人団体客が次々と入ってきて、拙政園や留園のような賑わいでした。上の写真は人が最も少なくなったときに撮ったものなのです。


 山塘街にある古松園も、人気の庭園です。古松園は清末期に、木涜の富豪である蔡少漁 の旧宅で、保存状態が良いことで知られています。この古松園の一番の見所は裏庭の庭園です。裏庭の奥には、刺繍芸術館もあります。

 古松園の裏庭です。霊岩山を背景に、のびのびとした庭園になっています。蘇州の庭園とは一味違った中国庭園となっています。詳しくは、後日、何枚かの写真とともにご紹介するようにします。
 霊岩山の麓にもいろいろと見所があるようなのですが、今回はそこまで足を伸ばす時間がありませんでした。


  榜眼府邸も山塘街にある庭園です。榜眼府邸は、清代末期の政治家・軍人の林則徐の弟子で政論家だった馮桂芬の旧居です。「榜眼」とは科挙に次席で及第した者を指しますが、馮桂芬氏は1840年の科挙に次席で及第したので、地元の人々は馮氏の住宅を「榜眼府邸」と称したわけです。因みに、1位で及第した者は状元と言われます。
 榜眼府邸 は前部が住宅で、後部が庭園が広がる、いわゆる私家庭園です。敷地面積は6,660平米位ですから、あまり広くありません。


 榜眼府邸の庭園はあまり整備状況が良くないのですが、清代の庭園らしい風格は感じられます。観光客が一杯でゆっくりと庭園を鑑賞できない厳家花園や古松園とは異なり、榜眼府邸では殆ど庭を独り占めして、ゆっくりと自分の時間を楽しむことができます。

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